人《いちにん》もあるまじく存ずるなり。今、事の序《ついで》なれば、わが「じゃぼ」に会いし次第、南蛮の語《ことば》にては「あぼくりは」とも云うべきを、あらあら下《しも》に記し置かん。
年月《ねんげつ》のほどは、さる可き用もなければ云わず。とある年の秋の夕暮、われ独り南蛮寺の境内《けいだい》なる花木《はなき》の茂みを歩みつつ、同じく切支丹《きりしたん》宗門の門徒にして、さるやんごとなきあたりの夫人が、涙ながらの懺悔《こひさん》を思いめぐらし居たる事あり。先つごろ、その夫人のわれに申されけるは、「このほど、怪しき事あり。日夜何ものとも知れず、わが耳に囁《ささや》きて、如何《いかん》ぞさばかりむくつけき夫のみ守れる。世には情《なさけ》ある男も少からぬものをと云う。しかもその声を聞く毎に、神魂たちまち恍惚として、恋慕の情|自《おのずか》ら止《とど》め難し。さればとてまた、誰と契《ちぎ》らんと願うにもあらず、ただ、わが身の年若く、美しき事のみなげかれ、徒《いたず》らなる思に身を焦《こが》すなり」と。われ、その時、宗門の戒法を説き、かつ厳《おごそか》に警《いまし》めけるは、「その声こそ、一定《いちじょう》悪魔の所為《しょい》とは覚えたれ。総じてこの「じゃぼ」には、七つの恐しき罪に人間を誘《さそ》う力あり、一に驕慢《きょうまん》、二に憤怒《ふんぬ》、三に嫉妬《しっと》、四に貪望《とんもう》、五に色欲、六に餮饕《てっとう》、七に懈怠《けたい》、一つとして堕獄の悪趣たらざるものなし。されば DS《でうす》 が大慈大悲の泉源たるとうらうえにて、「じゃぼ」は一切諸悪の根本なれば、いやしくも天主の御教《みおしえ》を奉ずるものは、かりそめにもその爪牙《そうが》に近づくべからず。ただ、専念に祈祷《おらしょ》を唱《とな》え、DS の御徳にすがり奉って、万一「いんへるの」の業火《ごうか》に焼かるる事を免るべし」と。われ、さらにまた南蛮の画《え》にて見たる、悪魔の凄じき形相《ぎょうそう》など、こまごまと談りければ、夫人も今更に「じゃぼ」の恐しさを思い知られ、「さてはその蝙蝠《かわほり》の翼、山羊の蹄、蛇《くちなわ》の鱗《うろこ》を備えしものが、目にこそ見えね、わが耳のほとりに蹲《うずくま》りて、淫《みだ》らなる恋を囁くにや」と、身ぶるいして申されたり。われ、その一部始終を心の中《うち》に繰返しつつ、
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