「なぜ?」
「なぜって……あたしは洋食の食べかたを一度も教わったことはないんですもの。」
「誰でも教わったり何かするものか!……」
 夫は上着《うわぎ》をひっかけるが早いか、無造作《むぞうさ》に春の中折帽《なかおれぼう》をかぶった。それからちょっと箪笥《たんす》の上の披露式の通知に目を通し「何だ、四月の十六日《じゅうろくんち》じゃないか?」と言った。
「そりゃ十六日だって十七日《じゅうしちんち》だって……」
「だからさ、まだ三日《みっか》もある。そのうちに稽古《けいこ》をしろと言うんだ。」
「じゃあなた、あしたの日曜にでもきっとどこかへつれて行って下さる!」
 しかし夫は何《なん》とも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子は夫を見送りながら、ちょっと憂鬱《ゆううつ》にならずにはいられなかった。それは彼女の体の具合《ぐあい》も手伝っていたことは確かだった。子供のない彼女はひとりになると、長火鉢の前の新聞をとり上げ、何かそう云う記事はないかと一々欄外へも目を通した。が、「今日《きょう》の献立《こんだ》て」はあっても、洋食の食べかたなどと云うものはなかった。洋食の食べかたなどと
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