その頃の赤門生活
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)住《ぢゆう》せざりし
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)唯|雷《かみなり》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》
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一
僕の二十六歳の時なりしと覚ゆ。大学院学生となりをりしが、当時東京に住《ぢゆう》せざりしため、退学届を出す期限に遅れ、期限後数日を経《へ》て事務所に退学届を出《いだ》したりしに、事務の人は規則を厳守して受けつけず「既に期限に遅れし故、三十円の金を収《をさ》めよ」といふ。大正五六年の三十円は大金なり。僕はこの大金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを得ず除名処分を受くべし」といへり。事務の人は僕の将来を気づかひ「君にして除名処分を受けん乎《か》、今後の就職口を如何《いかん》せん」といひしが、畢《つひ》に除名処分を受くることとなれり。
僕の同級の哲学科の学生、僕の為に感激して曰《いはく》、「君もシエリングの如く除名処分を受けしか」と! シエリングも亦《また》僕の如く三十円の金を出し渋《しぶ》りしや否や、僕は未《いま》だ寡聞《くわぶん》にしてこれを知らざるを遺憾《ゐかん》とするものなり。
二
僕達のイギリス文学科の先生は、故《こ》ロオレンス先生なり、先生は一日《いちじつ》僕を路上に捉《とら》へ、※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能《あた》はざりし故、唯|雷《かみなり》に打たれたる唖《おし》の如く瞠目《だうもく》して先生の顔を見守り居たり。先生も亦《また》僕の容子《ようす》に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如《とつじよ》として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時《しばらく》の後《のち》、僕を後《うしろ》にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。
三
僕等「新思潮《しんしてう》社」同人《どうじん》の列したるは
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