ござる。但し罰をうければこそ、贖《あがな》いもあると云う次第ゆえ、やがて御主の救抜《きゅうばつ》を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罰と贖《あがな》いとが、ひとつに天から下るものでござる。」――「さまよえる猶太人」は、記録の最後で、こう自分の第二の疑問に答えている。この答の当否を穿鑿《せんさく》する必要は、暫くない。ともかくも答を得たと云う事が、それだけですでに自分を満足させてくれるからである。
「さまよえる猶太人」に関して、自分の疑問に対する答を、東西の古文書《こもんじょ》の中に発見した人があれば、自分は切《せつ》に、その人が自分のために高教を吝《おし》まない事を希望する。また自分としても、如上の記述に関する引用書目を挙げて、いささかこの小論文の体裁を完全にしたいのであるが、生憎《あいにく》そうするだけの余白が残っていない。自分はただここに、「さまよえる猶太人」の伝記の起源が、馬太伝《またいでん》の第十六章二十八節と馬可伝《まこでん》の第九章一節とにあると云うベリンググッドの説を挙げて、一先ずペンを止《とど》める事にしようと思う。
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