ろも》を纏《まと》わせた。またあるものはその十字架《くるす》の上に、I・N・R・Iの札をうちつけた。石を投げ、唾《つば》を吐きかけたものに至っては、恐らく数えきれないほど多かったのに違いない。それが何故、彼ひとりクリストの呪《のろい》を負ったのであろう。あるいはこの「何故」には、どう云う解釈が与えられているのであろう。――これが、自分の第二の疑問であった。
 自分は、数年来この二つの疑問に対して、何等の手がかりをも得ずに、空しく東西の古文書《こもんじょ》を渉猟《しょうりょう》していた。が、「さまよえる猶太人」を取扱った文献の数は、非常に多い。自分がそれをことごとく読破すると云う事は、少くとも日本にいる限り、全く不可能な事である。そこで、自分はとうとう、この疑問も結局答えられる事がないのかと云う気になった。所が丁度そう云う絶望に陥りかかった去年の秋の事である。自分は最後の試みとして、両肥《りょうひ》及び平戸《ひらど》天草《あまくさ》の諸島を遍歴して、古文書の蒐集に従事した結果、偶然手に入れた文禄《ぶんろく》年間の MSS. 中から、ついに「さまよえる猶太人」に関する伝説を発見する事が出来た。その古文書の鑑定その他に関しては、今ここに叙説《じょせつ》している暇《いとま》がない。ただそれは、当時の天主教徒の一人が伝聞した所を、そのまま当時の口語で書き留めて置いた簡単な覚え書だと云う事を書いてさえ置けば十分である。
 この覚え書によると、「さまよえる猶太人」は、平戸《ひらど》から九州の本土へ渡る船の中で、フランシス・ザヴィエルと邂逅《かいこう》した。その時、ザヴィエルは、「シメオン伊留満《いるまん》一人を御伴《おとも》に召され」ていたが、そのシメオンの口から、当時の容子《ようす》が信徒の間へ伝えられ、それがまた次第に諸方へひろまって、ついには何十年か後に、この記録の筆者の耳へもはいるような事になったのである。もし筆者の言をそのまま信用すれば「ふらんしす上人《しょうにん》さまよえるゆだやびとと問答の事」は、当時の天主教徒間に有名な物語の一つとして、しばしば説教の材料にもなったらしい。自分は、今この覚え書の内容を大体に亘《わた》って、紹介すると共に、二三、原文を引用して、上記の疑問の氷解した喜びを、読者とひとしく味いたいと思う。――
 第一に、記録はその船が「土産《みやげ》の果
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