きりしとほろ上人伝
芥川龍之介

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《》:ルビ
(例)嘗《かつ》て

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(例)古来|洽《あまね》く

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(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》
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     小序

 これは予が嘗《かつ》て三田文学誌上に掲載した「奉教人の死」と同じく、予が所蔵の切支丹版「れげんだ・おうれあ」の一章に、多少の潤色を加へたものである。但し「奉教人の死」は本邦西教徒の逸事であつたが、「きりしとほろ上人伝《しやうにんでん》」は古来|洽《あまね》く欧洲天主教国に流布《るふ》した聖人行状記の一種であるから、予の「れげんだ・おうれあ」の紹介も、彼是《ひし》相俟《あひま》つて始めて全豹《ぜんぺう》を彷彿《はうふつ》する事が出来るかも知れない。
 伝中殆ど滑稽に近い時代錯誤や場所錯誤が続出するが、予は原文の時代色を損ふまいとした結果、わざと何等の筆削《ひつさく》をも施さない事にした。大方の諸君子にして、予が常識の有無を疑はれなければ幸甚である。

     一 山ずまひのこと

 遠い昔のことでおぢやる。「しりあ」の国の山奥に、「れぷろぼす」と申す山男がおぢやつた。その頃「れぷろぼす」ほどな大男は、御主《おんあるじ》の日輪の照らさせ給ふ天《あめ》が下はひろしと云へ、絶えて一人もおりなかつたと申す。まづ身の丈は三丈あまりもおぢやらうか。葡萄蔓《えびかづら》かとも見ゆる髪の中には、いたいけな四十雀《しじふから》が何羽とも知れず巣食うて居つた。まいて手足はさながら深山《みやま》の松檜にまがうて、足音は七つの谷々にも谺《こだま》するばかりでおぢやる。さればその日の糧《かて》を猟《あさ》らうにも、鹿熊なんどのたぐひをとりひしぐは、指の先の一ひねりぢや。又は折ふし海べに下り立つて、すなどらうと思ふ時も、海松房《みるぶさ》ほどな髯《ひげ》の垂れた顋《おとがひ》をひたと砂につけて、ある程の水を一吸ひ吸へば、鯛《たひ》も鰹《かつを》も尾鰭《おびれ》をふるうて、ざはざはと口へ流れこんだ。ぢやによつて沖を通る廻船さへ、時ならぬ潮のさしひきに漂はされて、水夫《かこ》楫取《かんどり》の慌《あわ》てふためく事もおぢやつたと申し伝へた。
 なれど「れぷろぼす」は、性得《しやうとく》心根《こころね》のやさしいものでおぢやれば、山ずまひの杣《そま》猟夫《かりうど》は元より、往来の旅人にも害を加へたと申す事はおりない。反《かへ》つて杣《そま》の伐《き》りあぐんだ樹は推し倒し、猟夫《かりうど》の追ひ失うた毛物《けもの》はとつておさへ、旅人の負ひなやんだ荷は肩にかけて、なにかと親切をつくいたれば、遠近《をちこち》の山里でもこの山男を憎まうずものは、誰一人おりなかつた。中にもとある一村では、羊飼のわらんべが行き方知れずになつた折から、夜さりそのわらんべの親が家の引き窓を推し開くものがあつたれば、驚きまどうて上を見たに、箕《み》ほどな「れぷろぼす」の掌《たなごころ》が、よく眠入《ねい》つたわらんべをかいのせて、星空の下から悠々と下りて来たこともおぢやると申す。何と山男にも似合ふまじい、殊勝な心映えではおぢやるまいか。
 されば山賤《やまがつ》たちも「れぷろぼす」に出合へば、餅や酒などをふるまうて、へだてなく語らふことも度々おぢやつた。さるほどにある日のこと、杣《そま》の一むれが樹を伐らうずとて、檜山《ひやま》ふかくわけ入つたに、この山男がのさのさと熊笹の奥から現れたれば、もてなし心に落葉を焚《た》いて、徳利の酒を暖めてとらせた。その滴《しづく》ほどな徳利の酒さへ、「れぷろぼす」は大きに悦《よろこ》んだけしきで、頭の中に巣食うた四十雀にも、杣たちの食《は》み残いた飯をばらまいてとらせながら、大あぐらをかいて申したは、
「それがしも人間と生れたれば、あつぱれ功名手がらをも致いて、末は大名ともならうずる。」と云へば、杣たちも打ち興じて、
「道理《ことわり》かな。おぬしほどの力量があれば、城の二つ三つも攻め落さうは、片手業《かたてわざ》にも足るまじい。」と云うた。その時「れぷろぼす」が、ちともの案ずる体《てい》で申すやうは、
「なれどここに一つ、難儀なことがおぢやる。それがしは日頃山ずまひのみ致いて居れば、どの殿の旗下《はたもと》に立つて、合戦を仕《つかまつ》らうやら、とんと分別を致さうやうもござない。就いては当今天下無双の強者《つはもの》と申すは、いづくの国の大将でござらうぞ。誰にもあれそれがしは、その殿の馬前に馳《は》せ参じて、忠節をつくさうずる。」と問うたれば、
「さればその事でおぢやる。まづわれらが量見にては、今|天《あめ》が下に『あんちおきや』の帝《みかど》ほど、武勇に富んだ大将もおぢやるまい。」と答へた。山男はそれを聞いて、斜《ななめ》ならず悦びながら、
「さらばすぐさま、打ち立たうず。」とて、小山のやうな身を起《おこ》いたが、ここに不思議がおぢやつたと申すは、頭の中に巣食うた四十雀《しじふから》が、一時にけたたましい羽音を残いて、空に網を張つた森の梢《こずゑ》へ、雛《ひな》も余さず飛び立つてしまうた事ぢや。それが斜に枝を延《のば》いた檜のうらに上つたれば、とんとその樹は四十雀が実のつたやうぢやとも申さうず。「れぷろぼす」はこの四十雀のふるまひを、訝《いぶか》しげな眼で眺めて居つたが、やがて又初一念を思ひ起いた顔色で、足もとにつどうた杣《そま》たちにねんごろな別をつげてから、再び森の熊笹を踏み開いて、元来たやうにのしのしと、山奥へ独り往《い》んでしまうた。
 されば「れぷろぼす」が大名にならうず願望がことは、間もなく遠近《をちこち》の山里にも知れ渡つたが、ほど経て又かやうな噂《うはさ》が、風のたよりに伝はつて参つた。と申すは国ざかひの湖で、大ぜいの漁夫《れふし》たちが泥に吸はれた大船をひきなづんで居つた所に、怪しげな山男がどこからか現れて、その船の帆柱をむずとつかんだと見てあれば、苦もなく岸へひきよせて、一同の驚き呆れるひまに、早くも姿をかくしたと云ふ噂ぢや。ぢやによつて「れぷろぼす」を見知つたほどの山賤《やまがつ》たちは、皆この情ぶかい山男が、愈《いよいよ》「しりや」の国中から退散したことを悟つたれば、西空に屏風《びやうぶ》を立てまはした山々の峰を仰ぐ毎に、限りない名残りが惜しまれて、自《おのづか》らため息がもれたと申す。まいてあの羊飼のわらんべなどは、夕日が山かげに沈まうず時は、必《かならず》村はづれの一本杉にたかだかとよぢのぼつて、下につどうた羊のむれも忘れたやうに、「れぷろぼす」恋しや、山を越えてどち行つたと、かなしげな声で呼びつづけた。さてその後「れぷろぼす」が、如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らうず方々はまづ次のくだりを読ませられい。

     二 俄大名のこと

 さるほどに「れぷろぼす」は、難なく「あんちおきや」の城裡《じやうり》に参つたが、田舎《ゐなか》の山里とはこと変り、この「あんちおきや」の都と申すは、この頃|天《あめ》が下に並びない繁華の土地がらゆゑ、山男が巷《ちまた》へはいるや否や、見物の男女《なんによ》夥《おびただ》しうむらがつて、はては通行することも出来まじいと思はれた。されば「れぷろぼす」もとんと行かうず方角を失うて、人波に腰を揉《も》まれながら、とある大名小路の辻に立ちすくんでしまうたに、折よくそこへ来かかつたは、帝《みかど》の御輦《ぎよれん》をとりまいた、侍たちの行列ぢや。見物の群集《ぐんじゆ》はこれに先を追はれて、山男を一人残いた儘《まま》、見る見る四方へ遠のいてしまうた。ぢやによつて「れぷろぼす」は、大象の足にまがはうずしたたかな手を大地について、御輦の前に頭を下げながら、
「これは『れぷろぼす』と申す山男でござるが、唯今『あんちおきや』の帝は、天下無双の大将と承り、御奉公申さうずとて、はるばるこれまでまかり上つた。」と申し入れた。これよりさき、帝の同勢も、「れぷろぼす」の姿に胆《きも》をけして、先手は既に槍《やり》薙刀《なぎなた》の鞘《さや》をも払はうずけしきであつたが、この殊勝な言《ことば》を聞いて、異心もあるまじいものと思ひつらう、とりあへず行列をそこに止めて、供頭《ともがしら》の口からその趣をしかじかと帝へ奏聞《そうもん》した。帝はこれを聞《きこ》し召されて、
「かほどの大男のことなれば、一定《いちぢやう》武勇も人に超えつらう。召し抱へてとらせい。」と、仰せられたれば、格別の詮議とあつて、すぐさま同勢の内へ加へられた。「れぷろぼす」の悦びは申すまでもあるまじい。ぢやによつて帝の行列の後から、三十人の力士もえ舁《か》くまじい長櫃《ながびつ》十棹《とさを》の宰領を承つて、ほど近い御所の門まで、鼻たかだかと御供仕つた。まことこの時の「れぷろぼす」が、山ほどな長櫃を肩にかけて、行列の人馬を目の下に見下しながら、大手をふつてまかり通つた異形《いぎやう》奇体の姿こそ、目ざましいものでおぢやつたらう。
 さてこれより「れぷろぼす」は、漆紋《うるしもん》の麻裃《あさがみしも》に朱鞘の長刀《なががたな》を横たへて、朝夕「あんちおきや」の帝の御所を守護する役者の身となつたが、幸《さいはひ》ここに功名手がらを顕《あらは》さうず時節が到来したと申すは、ほどなく隣国の大軍がこの都を攻めとらうと、一度に押し寄せて参つたことぢや。元来この隣国の大将は、獅子王をも手打ちにすると聞えた、万夫不当《ばんぷふたう》の剛の者でおぢやれば、「あんちおきや」の帝とても、なほざりの合戦はなるまじい。ぢやによつて今度の先手《さきて》は、今まゐりながら「れぷろぼす」に仰せつけられ、帝は御自《おんみづか》ら本陣に御輦《ぎよれん》をすすめて、号令を司《つかさど》られることとなつた。この采配を承つた「れぷろぼす」が、悦び身にあまりて、足の踏みども覚えなんだは、毛頭無理もおぢやるまい。
 やがて味方も整へば、帝は、「れぷろぼす」をまつさきに、貝金《かひがね》陣太鼓の音も勇しう、国ざかひの野原に繰り出された。かくと見た敵の軍勢は、元より望むところの合戦ぢやによつて、なじかは寸刻もためらはう。野原を蔽《おほ》うた旗差物が、俄《にはか》に波立つたと見てあれば、一度にどつと鬨《とき》をつくつて、今にも懸け合はさうずけしきに見えた。この時「あんちおきや」の人数の中より、一人悠々と進み出《だ》いたは、別人でもない「れぷろぼす」ぢや。山男がこの日の出《い》で立ちは、水牛の兜《かぶと》に南蛮鉄の鎧《よろひ》を着下《きおろ》いて、刃渡り七尺の大薙刀《おほなぎなた》を柄《え》みじかにおつとつたれば、さながら城の天主に魂が宿つて、大地も狭しと揺ぎ出《いだ》いた如くでおぢやる。さるほどに「れぷろぼす」は両軍の唯中に立ちはだかると、その大薙刀をさしかざいて、遙《はるか》に敵勢を招きながら、雷《いかづち》のやうな声で呼《よば》はつたは、
「遠からんものは音にも聞け、近くばよつて目にも見よ。これは『あんちおきや』の帝が陣中に、さるものありと知られたる『れぷろぼす』と申す剛の者ぢや。辱《かたじけな》くも今日は先手の大将を承り、ここに軍を出《いだ》いたれば、われと思はうずるものどもは、近う寄つて勝負せよやつ。」と申した。その武者ぶりの凄じさは、昔「ぺりして」の豪傑に「ごりあて」と聞えたが、鱗綴《うろことぢ》の大鎧に銅《あかがね》の矛《ほこ》を提《ひつさ》げて、百万の大軍を叱陀《しつた》したにも、劣るまじいと見えたれば、さすが隣国の精兵たちも、しばしがほどは鳴《なり》を静めて、出で合うずものもおりなかつた。ぢやによつて敵の大将も、この山男を討たいでは、かなふまじいと思ひつらう。美々しい物の具に三尺の太刀をぬきかざいて、竜馬《りゆうめ》に泡を食《は》ませながら、これも大音に名乗
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