ず方々はまづ次のくだりを読ませられい。

     四 往生のこと

 さるほどに「きりしとほろ」は隠者の翁に別れを告げて、流沙河のほとりに参つたれば、まことに濁流|滾々《こんこん》として、岸べの青蘆《あをあし》を戦《そよ》がせながら、百里の波を翻すありさまは、容易《たやす》く舟さへ通ふまじい。なれど山男は身の丈|凡《およ》そ三丈あまりもおぢやるほどに、河の真唯中を越す時さへ、水は僅に臍《ほぞ》のあたりを渦巻きながら流れるばかりぢや。されば「きりしとほろ」はこの河べに、ささやかながら庵《いほり》を結んで、時折渡りに難《なや》むと見えた旅人の影が眼に触れれば、すぐさまそのほとりへ歩み寄つて、「これはこの流沙河の渡し守でおぢやる。」と申し入れた。もとより並々の旅人は、山男の恐しげな姿を見ると、如何なる天魔波旬《てんまはじゆん》かと始《はじめ》は胆も消《け》いて逃げのいたが、やがてその心根のやさしさもとくと合点《がてん》行つて、「然らば御世話に相成らうず。」と、おづおづ「きりしとほろ」の背《せな》にのぼるが常ぢや。所で「きりしとほろ」は旅人を肩へゆり上げると、毎時《いつ》も汀《みぎは》の柳を根こぎにしたしたたかな杖をつき立てながら、逆巻く流れをことともせず、ざんざざんざと水を分けて、難なく向うの岸へ渡いた。しかもあの四十雀《しじふから》は、その間さへ何羽となく、さながら楊花《やうくわ》の飛びちるやうに、絶えず「きりしとほろ」の頭をめぐつて、嬉しげに囀《さへづ》り交《かは》いたと申す。まことや「きりしとほろ」が信心の辱《かたじけな》さには、無心の小鳥も随喜の思にえ堪へなんだのでおぢやらうず。
 かやう致いて「きりしとほろ」は、風雨も厭はず三年が間、渡し守の役目を勤めて居つたが、渡りを尋ねる旅人の数は多うても、御主「えす・きりしと」らしい御姿には、絶えて一度も知遇せなんだ。が、その三年目の或夜のこと、折から凄じい嵐があつて、神鳴りさへおどろと鳴り渡つたに、山男は四十雀と庵を守つて、すぎこし方のことどもを夢のやうに思ひめぐらいて居つたれば、忽ち車軸を流す雨を圧して、いたいけな声が響いたは、
「如何に渡し守はおりやるまいか。その河一つ渡して給はれい。」と、聞え渡つた。されば「きりしとほろ」は身を起いて、外の闇夜へ揺ぎ出《いだ》いたに、如何なこと、河のほとりには、年の頃もまだ十には足るまじい、みめ清らかな白衣《びやくえ》のわらんべが、空をつんざいて飛ぶ稲妻の中に、頭を低《た》れて唯ひとり、佇んで居つたではおぢやるまいか。山男は稀有《けう》の思をないて、千引《ちびき》の巌にも劣るまじい大の体をかがめながら、慰めるやうに問ひ尋ねたは、
「おぬしは何としてかやうな夜更けにひとり歩くぞ。」と申したに、わらんべは悲しげな瞳をあげて、
「われらが父のもとへ帰らうとて。」と、もの思はしげな声で返答した。もとより「きりしとほろ」はこの答を聞いても、一向不審は晴れなんだが、何やらその渡りを急ぐ容子《ようす》があはれにやさしく覚えたによつて、
「然らば念無う渡さうずる。」と、双手《もろて》にわらんべをかい抱いて、日頃の如く肩へのせると、例の太杖をてうとついて、岸べの青蘆を押し分けながら、嵐に狂ふ夜河の中へ、胆太くもざんぶと身を浸《した》いた。が、風は黒雲を巻き落いて、息もつかすまじいと吹きどよもす。雨も川面《かはづら》を射白《いしら》まいて、底にも徹《とほ》らうずばかり降り注いだ。時折闇をかい破る稲妻の光に見てあれば、浪は一面に湧き立ち返つて、宙に舞上る水煙も、さながら無数の天使《あんぢよ》たちが雪の翼をはためかいて、飛びしきるかとも思ふばかりぢや。さればさすがの「きりしとほろ」も、今宵はほとほと渡りなやんで、太杖にしかとすがりながら、礎《いしずゑ》の朽ちた塔のやうに、幾度《いくたび》もゆらゆらと立ちすくんだが、雨風よりも更に難儀だつたは、怪《けし》からず肩のわらんべが次第に重うなつたことでおぢやる。始はそれもさばかりに、え堪へまじいとは覚えなんだが、やがて河の真唯中へさしかかつたと思ふほどに、白衣のわらんべが重みは愈《いよいよ》増《ま》いて、今は恰《あたか》も大磐石《だいばんじやく》を負ひないてゐるかと疑はれた。所で遂には「きりしとほろ」も、あまりの重さに圧し伏されて、所詮《しよせん》はこの流沙河に命を殞《おと》すべいと覚悟したが、ふと耳にはいつて来たは、例の聞き慣れた四十雀の声ぢや。はてこの闇夜に何として、小鳥が飛ばうぞと訝《いぶか》りながら、頭を擡《もた》げて空を見たれば、不思議やわらんべの面をめぐつて、三日月ほどな金光が燦爛《さんらん》と円《まる》く輝いたに、四十雀はみな嵐をものともせず、その金光のほとりに近く、紛々と躍り狂うて居つた。これを見た山男は、
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