ず声高《こわだか》に誦《ず》し奉つたに、見る見る黒雲も薄れれば、桜の花も降らずなつて、あばら家の中には又もとの如く、油火ばかりが残つたと申す。
 なれど隠者は悪魔《ぢやぼ》の障碍《しやうげ》が猶《なほ》もあるべいと思うたれば、夜もすがら御経の力にすがり奉つて、目蓋《まぶた》も合はさいで明《あか》いたに、やがてしらしら明けと覚しい頃、誰やら柴の扉《とぼそ》をおとづれるものがあつたによつて、十字架《くるす》を片手に立ち出でて見たれば、これは又何ぞや、藁屋の前に蹲《うづくま》つて、恭《うやうや》しげに時儀《じぎ》を致いて居つたは、天から降つたか、地から湧いたか、小山のやうな大男ぢや。それが早くも朱《あけ》を流いた空を黒々と肩にかぎつて、隠者の前に頭を下げると、恐る恐る申したは、
「それがしは『れぷろぼす』と申す『しりや』の国の山男でおぢやる。ちかごろふつと悪魔《ぢやぼ》の下部《しもべ》と相成つて、はるばるこの『えじつと』の沙漠まで参つたれど、悪魔《ぢやぼ》も御主《おんあるじ》『えす・きりしと』とやらんの御威光には叶ひ難く、それがし一人を残し置いて、いづくともなく逐天《ちくてん》致いた。自体それがしは今天が下に並びない大剛の者を尋ね出いて、その身内に仕へようずる志がおぢやるによつて、何とぞこれより後は不束《ふつつか》ながら、御主『えす・きりしと』の下部の数へ御加へ下されい。」と云うた。隠者の翁はこれを聞くと、あばら家の門に佇《たたず》みながら、俄に眉をひそめて答へたは、
「はてさて、せんない仕宜《しぎ》になられたものかな。総じて悪魔《ぢやぼ》の下部となつたものは、枯木に薔薇の花が咲かうずるまで、御主『えす・きりしと』に知遇し奉る時はござない。」とあつたに、「れぷろぼす」は又ねんごろに頭を下げて、
「たとへ幾千歳を経ようずるとも、それがしは初一念を貫かうずと決定《けつぢやう》致いた。さればまづ御主『えす・きりしと』の御意《みこころ》に叶ふべい仕業の段々を教へられい。」と申した。所で隠者の翁と山男との間には、かやうな問答がしかつめらしうとり交されたと申す事でおぢやる。
「ごへんは御経《おんきやう》の文句を心得られたか。」
「生憎《あいにく》一字半句の心得もござない。」
「ならば断食は出来申さうず。」
「如何《いか》なこと、それがしは聞えた大飯食ひでおぢやる。中々断食などはなるまじい。」
「難儀かな。夜もすがら眠らいで居る事は如何あらう。」
「如何なこと、それがしは聞えた大寝坊でおぢやる。中々眠らいでは居られまじい。」
 それにはさすがの隠者の翁も、ほとほと言《ことば》のつぎ穂さへおぢやらなんだが、やがて掌《たなごころ》をはたと打つて、したり顔に申したは、
「ここを南に去ること一里がほどに、流沙河《りうさが》と申す大河がおぢやる。この河は水嵩《みづかさ》も多く、流れも矢を射る如くぢやによつて、日頃から人馬の渡りに難儀致すとか承つた。なれどごへんほどの大男には、容易《たやす》く徒渉《かちわた》りさへならうずる。さればごへんはこれよりこの河の渡し守となつて、往来の諸人を渡させられい。おのれ人に篤《あつ》ければ、天主も亦おのれに篤からう道理《ことわり》ぢや。」とあつたに、大男は大いに勇み立つて、
「如何にも、その流沙河とやらの渡し守になり申さうずる。」と云うた。ぢやによつて隠者の翁も、「れぷろぼす」が殊勝な志をことの外|悦《よろこ》んで、
「然《さ》らば唯今、御水《おんみづ》を授け申さうずる。」とあつて、おのれは水瓶《みづがめ》をかい抱きながら、もそもそと藁家の棟へ這ひ上つて、漸《やうや》く山男の頭の上へその水瓶の水を注ぎ下いた。ここに不思議がおぢやつたと申すは、得度《とくど》の御儀式が終りも果てず、折からさし上つた日輪の爛々《らんらん》と輝いた真唯中から、何やら雲気がたなびいたかと思へば、忽ちそれが数限りもない四十雀《しじふから》の群となつて、空に聳《そび》えた「れぷろぼす」が叢《くさむら》ほどな頭の上へ、ばらばらと舞ひ下つたことぢや。この不思議を見た隠者の翁は、思はず御水を授けようず方角さへも忘れはてて、うつとりと朝日を仰いで居つたが、やがて恭《うやうや》しく天上を伏し拝むと、家の棟から「れぷろぼす」をさし招いて、
「勿体《もつたい》なくも御水を頂かれた上からは、向後《かうご》『れぷろぼす』を改めて、『きりしとほろ』と名のらせられい。思ふに天主もごへんの信心を深う嘉《よみ》させ給ふと見えたれば、万一|勤行《ごんぎやう》に懈怠《けたい》あるまじいに於ては、必定《ひつぢやう》遠からず御主『えす・きりしと』の御尊体をも拝み奉らうずる。」と云うた。さて「きりしとほろ」と名を改めた「れぷろぼす」が、その後如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らう
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