消《け》いて、学匠もろとも中空を射る矢のやうに翔《かけ》りながら、戦《をのの》く声で尋ねたは、
「そもそもごへんは、何人でおぢやらうぞ。ごへんほどな大神通《だいじんづう》の博士は、世にも又とあるまじいと覚ゆる。」と申したに、学匠は忽ち底気味悪いほくそ笑みを洩しながら、わざとさりげない声で答へたは、
「何を隠さう、われらは、天《あめ》が下の人間を掌《たなごころ》にのせて弄《もてあそ》ぶ、大力量の剛の者ぢや。」とあつたによつて、「れぷろぼす」は始めて学匠の本性が、悪魔《ぢやぼ》ぢやと申すことに合点《がてん》が参つた。さるほどに悪魔《ぢやぼ》はこの問答の間さへ、妖霊星の流れる如く、ひた走りに宙を走つたれば、「あんちおきや」の都の燈火《ともしび》も、今ははるかな闇の底に沈みはてて、やがて足もとに浮んで参つたは、音に聞く「えじつと」の沙漠でおぢやらう。幾百里とも知れまじい砂の原が、有明の月の光の中に、夜目にも白々と見え渡つた。この時学匠は爪長な指をのべて、下界をゆびさしながら申したは、
「かしこの藁屋《わらや》には、さる有験《うげん》の隠者が住居《すまひ》致いて居ると聞いた。まづあの屋根の上に下らうずる。」とあつて、「れぷろぼす」を小脇に抱いた儘《まま》、とある沙山《すなやま》陰のあばら家の棟《むね》へ、ひらひらと空から舞ひ下つた。
こなたはそのあばら家に行ひすまいて居つた隠者の翁《おきな》ぢや。折から夜のふけたのも知らず、油火《あぶらび》のかすかな光の下で、御経《おんきやう》を読誦《どくじゆ》し奉つて居つたが、忽《たちま》ちえならぬ香風が吹き渡つて、雪にも紛《まが》はうず桜の花が紛々と飜《ひるがへ》り出《いだ》いたと思へば、いづくよりともなく一人の傾城《けいせい》が、鼈甲《べつかふ》の櫛《くし》笄《かうがい》を円光の如くさしないて、地獄絵を繍《ぬ》うた襠《うちかけ》の裳《もすそ》を長々とひきはえながら、天女のやうな媚《こび》を凝《こら》して、夢かとばかり眼の前へ現れた。翁はさながら「えじつと」の沙漠が、片時の内に室神崎《むろかんざき》の廓《くるわ》に変つたとも思ひつらう。あまりの不思議さに我を忘れて、しばしがほどは惚々《ほれぼれ》と傾城《けいせい》の姿を見守つて居つたに、相手はやがて花吹雪《はなふぶき》を身に浴びながら、につこと微笑《ほほゑ》んで申したは、
「これは『あんちおきや』の都に隠れもない遊びでおぢやる。近ごろ御僧のつれづれを慰めまゐらせうと存じたれば、はるばるこれまでまかり下つた。」とあつた。その声ざまの美しさは、極楽に棲《す》むとやら承つた伽陵頻伽《かりようびんが》にも劣るまじい。さればさすがに有験《うげん》の隠者もうかとその手に乗らうとしたが、思へばこの真夜中に幾百里とも知らぬ「あんちおきや」の都から、傾城《けいせい》などの来よう筈もおぢやらぬ。さては又しても悪魔《ぢやぼ》めの悪巧みであらうずと心づいたによつて、ひたと御経に眼を曝《さら》しながら、専念に陀羅尼《だらに》を誦《ず》し奉つて居つたに、傾城はかまへてこの隠者の翁を落さうと心にきはめつらう。蘭麝《らんじや》の薫を漂はせた綺羅《きら》の袂を弄《もてあそ》びながら、嫋々《たよたよ》としたさまで、さも恨めしげに歎いたは、
「如何《いか》に遊びの身とは申せ、千里の山河も厭《いと》はいで、この沙漠までまかり下つたを、さりとは曲《きよく》もない御方かな。」と申した。その姿の妙《たへ》にも美しい事は、散りしく桜の花の色さへ消えようずると思はれたが、隠者の翁は遍身《へんしん》に汗を流いて、降魔の呪文を読みかけ読みかけ、かつふつその悪魔《ぢやぼ》の申す事に耳を借さうず気色《けしき》すらおりない。されば傾城もかくてはなるまじいと気を苛《いらだ》つたか、つと地獄絵の裳《もすそ》を飜《ひるがへ》して、斜に隠者の膝へとすがつたと思へば、
「何としてさほどつれないぞ。」と、よよとばかりに泣い口説《くど》いた。と見るや否や隠者の翁は、蝎《さそり》に刺されたやうに躍り上つたが、早くも肌身につけた十字架《くるす》をかざいて、霹靂《はたたがみ》の如く罵《ののし》つたは、
「業畜《ごふちく》、御主《おんあるじ》『えす・きりしと』の下部《しもべ》に向つて無礼《むらい》あるまじいぞ。」と申しも果てず、てうと傾城の面《おもて》を打つた。打たれた傾城は落花の中に、なよなよと伏しまろんだが、忽ちその姿は見えずなつて、唯一むらの黒雲が湧き起つたと思ふほどに、怪しげな火花の雨が礫《つぶて》の如く乱れ飛んで、
「あら、痛や。又しても十字架《くるす》に打たれたわ。」と唸《うめ》く声が、次第に家の棟《むね》にのぼつて消えた。もとより隠者はかうあらうと心に期《ご》して居つたによつて、この間も秘密の真言《しんごん》を絶え
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