小鳥さへかくは雄々しいに、おのれは人間と生まれながら、なじかは三年《みとせ》の勤行《ごんぎやう》を一夜に捨つべいと思ひつらう。あの葡萄蔓《えびかづら》にも紛はうず髪をさつさつと空に吹き乱いて、寄せては返す荒波に乳のあたりまで洗はせながら、太杖も折れよとつき固めて、必死に目ざす岸へと急いだ。
 それが凡そ一時《ひととき》あまり、四苦八苦の内に続いたでおぢやらう。「きりしとほろ」は漸《やうや》く向うの岸へ、戦ひ疲れた獅子王のけしきで、喘《あへ》ぎ喘ぎよろめき上ると、柳の太杖を砂にさいて、肩のわらんべを抱き下しながら、吐息をついて申したは、
「はてさて、おぬしと云ふわらんべの重さは、海山《うみやま》量《はか》り知れまじいぞ。」とあつたに、わらんべはにつこと微笑《ほほゑ》んで、頭上の金光を嵐の中に一きは燦然ときらめかいながら、山男の顔を仰ぎ見て、さも懐しげに答へたは、
「さもあらうず。おぬしは今宵と云ふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷《にな》うた『えす・きりしと』を負ひないたのぢや。」と、鈴を振るやうな声で申した。……
       ―――――――――――――――
 その夜この方流沙河のほとりには、あの渡し守の山男がむくつけい姿を見せずなつた。唯後に残つたは、向うの岸の砂にさいた、したたかな柳の太杖で、これには枯れ枯れな幹のまはりに、不思議や麗《うるは》しい紅《くれなゐ》の薔薇の花が、薫《かぐは》しく咲き誇つて居つたと申す。されば馬太《またい》の御経《おんきやう》にも記《しる》いた如く「心の貧しいものは仕合せぢや。一定《いちぢやう》天国はその人のものとならうずる。」
[#地から2字上げ](大正八年四月)



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年6月22日公開
2004年2月27日修正
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