レんやりどこかへ眼を据えていた。
「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」
 洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを啣《くわ》えている兄の方へ言葉をかけた。
「二三日は間違いあるまいって云った。」
「怪しいな。戸沢さんの云う事じゃ――」
 今度は慎太郎が返事せずに、煙草《たばこ》の灰を火鉢へ落していた。
「慎ちゃん。さっきお前が帰って来た時、お母さんは何とか云ったかえ?」
「何とも云いませんでした。」
「でも笑ったね。」
 洋一は横から覗《のぞ》くように、静な兄の顔を眺めた。
「うん、――それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦《ばか》に好い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》がするじゃありませんか?」
 叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。
「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水《こうすい》を撒《ま》いたんだよ。洋ちゃん。何とか云ったね? あの香水は。」
「何ですか、――多分|床撒《とこま》き香水とか何んとか云うんでしょう。」
 そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。
「お父さんはいなくって?」
「店に御出でだよ。何か用かえ?」
「ええ、お母さんが、ちょいと、――」
 洋一はお絹がそう云うと同時に、早速《さっそく》長火鉢の前から立ち上った。
「僕がそう云って来る。」
 彼が茶の間から出て行くと、米噛《こめか》みに即効紙《そっこうし》を貼ったお絹は、両袖に胸を抱《だ》いたまま、忍び足にこちらへはいって来た。そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。
「どうだえ?」
「やっぱり薬が通らなくってね。――でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈夫ですわ。」
「熱は?」
 慎太郎は口を挟《はさ》みながら、まずそうに煙草の煙を吐いた。
「今|計《はか》ったら七度二分――」
 お絹は襟に顋《あご》を埋《うず》めたなり、考え深そうに慎太郎を見た。
「戸沢さんがいた時より、また一分《いちぶ》下ったんだわね。」
 三人はしばらく黙っていた。するとそのひっそりした中に、板の間《ま》を踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。
「今お前の家《うち》から電話がかかったよ。のちほどどうかお上《かみ》さんに御電話を願いますって。」
 賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはいって行った。
「しょうがないわね。家《うち》じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」
 お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。
「この節の女中はね。――私の所なんぞも女中はいるだけ、反《かえ》って世話が焼けるくらいなんだよ。」
 二人がこんな話をしている間《あいだ》に、慎太郎は金口《きんぐち》を啣《くわ》えながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。
「受験準備はしているかい?」
「している。――だけど今年《ことし》は投げているんだ。」
「また歌ばかり作っているんだろう。」
 洋一はいやな顔をして、自分も巻煙草《まきたばこ》へ火を移した。
「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。数学は大嫌いだし、――」
「嫌いだってやらなけりゃ、――」
 慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際《ふすまぎわ》へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、
「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。
 彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。
「こっちへ御出で。何かお母さんが用があるって云うから。」
 枕もとに独り坐っていた父は顋《あご》で彼に差図《さしず》をした。彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へ坐った。
「何か用?」
 母は括《くく》り枕の上へ、櫛巻《くしま》きの頭を横にしていた。その顔が巾《きれ》をかけた電燈の光に、さっきよりも一層|窶《やつ》れて見えた。
「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――お前からもよくそう云ってね、――お前の云う事は聞く子だから、――」
「ええ、よく云って置きます。実は今もその話をしていたんです。」
 慎太郎はいつもよりも大きい声で返事をした。
「そうかい。じゃ忘れないでね、――私も昨日《きのう》あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」
 母は腹痛をこらえながら、歯齦《はぐき》の見える微笑をした。
「帝釈様《たいしゃくさま》の御符《ごふ》を頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けば癒《なお》りそうだから、――美津《みつ》の叔父《おじ》さんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍《かいよう》だったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」
 慎太郎は今になってさえ、そんな事を頼みにしている母が、浅間《あさま》しい気がしてならなかった。
「癒りますとも。大丈夫癒りますからね、よく薬を飲むんですよ。」
 母はかすかに頷《うなず》いた。
「じゃただ今一つ召し上って御覧なさいまし。」
 枕もとに来ていた看護婦は器用にお律の唇《くちびる》へ水薬《みずぐすり》の硝子管《ガラスくだ》を当てがった。母は眼をつぶったなり、二吸《ふたすい》ほど管《くだ》の薬を飲んだ。それが刹那の間ながら、慎太郎の心を明くした。
「好《い》い塩梅《あんばい》ですね。」
「今度はおさまったようでございます。」
 看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。
「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし、床上《とこあ》げの時分は暑かろうな。こいつは一つ赤飯《せきはん》の代りに、氷あずきでも配《くば》る事にするか。」
 賢造の冗談をきっかけに、慎太郎は膝をついたまま、そっと母の側を引き下《さが》ろうとした。すると母は彼の顔へ、突然不審そうな眼をやりながら、
「演説《えんぜつ》? どこに今夜演説があるの?」と云った。
 彼はさすがにぎょっとして、救いを請うように父の方を見た。
「演説なんぞありゃしないよ。どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方が好いよ。」
 賢造はお律をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。慎太郎は早速膝を擡《もた》げて、明るい電燈に照らされた、隣の茶の間へ帰って来た。
 茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。それが彼の姿を見ると、皆一度に顔を挙げながら、何か病室の消息《しょうそく》を尋ねるような表情をした。が、慎太郎は口を噤《つぐ》んだなり、不相変《あいかわらず》冷やかな眼つきをして、もとの座蒲団《ざぶとん》の上にあぐらをかいた。
「何の用だって?」
 まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟に顋《あご》を埋めた、顔色《かおいろ》の好くないお絹だった。
「何でもなかった。」
「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」
 慎太郎は姉の言葉の中に、意地の悪い調子を感じた。が、ちょいと苦笑したぎり、何ともそれには答えなかった。
「洋ちゃん。お前今夜|夜伽《よとぎ》をおしかえ?」
 しばらく無言が続いた後、浅川の叔母は欠伸《あくび》まじりに、こう洋一へ声をかけた。
「ええ、――姉さんも今夜はするって云うから、――」
「慎ちゃんは?」
 お絹は薄い※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を挙げて、じろりと慎太郎の顔を眺めた。
「僕はどうでも好い。」
「不相変《あいかわらず》慎ちゃんは煮《に》え切らないのね。高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」
「この人はお前、疲れているじゃないか?」
 叔母ば半ばたしなめるように、癇高《かんだか》いお絹の言葉を制した。
「今夜は一番さきへ寝かした方が好いやね。何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」
「じゃ一番さきに寝るかな。」
 慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂死《すいし》の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、………

        六
 
 それでも店の二階の蒲団《ふとん》に、慎太郎《しんたろう》が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。彼は叔母の言葉通り、実際旅疲れを感じていた。が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反《ねがえ》りを繰り返しても、容易に睡気《ねむけ》を催さなかった。
 彼の隣には父の賢造《けんぞう》が、静かな寝息《ねいき》を洩らしていた。父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。父は鼾《いび》きをかかなかったかしら、――慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透《す》かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。
 しかし彼の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。その中には嬉しい記憶もあれば、むしろ忌《いま》わしい記憶もあった。が、どの記憶も今となって見れば、同じように寂しかった。「みんなもう過ぎ去った事だ。善くっても悪くっても仕方がない。」――慎太郎はそう思いながら、糊《のり》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする括《くく》り枕に、ぼんやり五分刈《ごぶがり》の頭を落着けていた。
 ――まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽子《ぼうし》を買って来た事があった。それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、庇《ひさし》の長い大黒帽《だいこくぼう》だった。するとそれを見た姉のお絹《きぬ》が、来月は長唄のお浚《さら》いがあるから、今度は自分にも着物を一つ、拵《こしら》えてくれろと云い出した。父はにやにや笑ったぎり、全然その言葉に取り合わなかった。姉はすぐに怒り出した。そうして父に背を向けたまま、口惜しそうに毒口《どくぐち》を利《き》いた。
「たんと慎ちゃんばかり御可愛《おかわい》がりなさいよ。」
 父は多少持て余しながらも、まだ薄笑いを止《や》めなかった。
「着物と帽子とが一つになるものかな。」
「じゃお母さんはどうしたんです? お母さんだってこの間は、羽織を一つ拵えたじゃありませんか?」
 姉は父の方へ向き直ると、突然険しい目つきを見せた。
「あの時はお前も簪《かんざし》だの櫛《くし》だの買って貰ったじゃないか?」
「ええ、買って貰いました。買って貰っちゃいけないんですか?」
 姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪《はなかんざし》をいきなり畳の上へ抛《ほう》り出した。
「何だ、こんな簪ぐらい。」
 父もさすがに苦い顔をした。
「莫迦《ばか》な事をするな。」
「どうせ私は莫迦ですよ。慎ちゃんのような利口じゃありません。私のお母さんは莫迦だったんですから、――」
 慎太郎は蒼《あお》い顔をしたまま、このいさかいを眺めていた。が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を掴《つか》むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。
「何をするのよ。慎ちゃん。」
 姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。
「こんな簪なんぞ入らないって云ったじゃないか? 入らなけりゃどうしたってかまわないじゃないか? 何だい、女の癖に、――喧嘩ならいつでも向って来い。――」
 いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮《あざやか》に映《うつ》っているような気がしながら。――
 慎太郎はふと耳を澄《すま》せた。誰かが音のしないように、暗い梯子《はしご》を上《あが》って来る。――と思うと美津《みつ》が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。
「旦那様《だんなさま》」
 眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を擡《もた》げた。
「何だい?」
「お上《かみ》さんが何か御用でございます。」
 美津の声は震えていた。
「よし、今行く。」
 父が二階を下りて行った後《のち》、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中《い
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