ヲじゅう》の物音にでも聞き入るように、じっと体を硬《こわ》ばらせていた。すると何故《なぜ》かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。
――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中《やなか》の墓地へ墓参りに行った。墓地の松や生垣《いけがき》の中には、辛夷《こぶし》の花が白らんでいる、天気の好《い》い日曜の午《ひる》過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜《おじぎ》をしただけだった。
「それでもう好いの?」
母は水を手向《たむ》けながら、彼の方へ微笑を送った。
「うん。」
彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。が、この憐《あわれ》な石塔には、何の感情も起らないのだった。
母はそれから墓の前に、しばらく手を合せていた。するとどこかその近所に、空気銃を打ったらしい音が聞えた。慎太郎は母を後に残して、音のした方へ出かけて行った。生垣《いけがき》を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、――そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か木《こ》の芽の煙った梢《こずえ》を残惜《のこりお》しそうに見上げていた。――
その時また彼の耳には、誰かの梯子《はしご》を上って来る音がみしりみしり聞え出した。急に不安になった彼は半ば床《とこ》から身を起すと、
「誰?」と上り口へ声をかけた。
「起きていたのか?」
声の持ち主は賢造だった。
「どうかしたんですか?」
「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」
父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団《ふとん》の上へ横になった。
「用って、悪いんじゃないんですか?」
「何、用って云った所が、ただ明日《あした》工場《こうば》へ行くんなら、箪笥《たんす》の上の抽斗《ひきだし》に単衣物《ひとえもの》があるって云うだけなんだ。」
慎太郎は母を憐んだ。それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。
「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」
「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」
「注射はそう度々は出来ないんだそうだから、――どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」
賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。
「お前のお母さんなんぞは後生《ごしょう》も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」
二人はしばらく黙っていた。
「みんなまだ起きていますか?」
慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。
「叔母さんは寝ている。が、寝られるかどうだか、――」
父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡《もた》げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。
「お父さん。お母さんがちょいと、――」
今度は梯子《はしご》の中段から、お絹《きぬ》が忍びやかに声をかけた。
「今行くよ。」
「僕も起きます。」
慎太郎は掻巻《かいま》きを刎《は》ねのけた。
「お前は起きなくっても好いよ。何かありゃすぐに呼びに来るから。」
父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。
慎太郎は床《とこ》の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。それからまた坐ったまま、電燈の眩《まぶ》しい光の中に、茫然《ぼうぜん》とあたりを眺め廻した。母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に床《とこ》の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。――そんな事もふと思われるのだった。
すると字を書いた罫紙《けいし》が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気《なにげ》なくそれを取り上げた。
「M子に献ず。……」
後《あと》は洋一の歌になっていた。
慎太郎はその罫紙を抛《ほう》り出すと、両手を頭の後《うしろ》に廻しながら、蒲団の上へ仰向《あおむ》けになった。そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。…………
七
慎太郎《しんたろう》がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお絹《きぬ》と賢造《けんぞう》とが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。
「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」
賢造はお絹にこう云ったなり、忙《いそが》しそうに梯子《はしご》を下りて行った。
窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降《おおぶ》りだな、――慎太郎はそう思いながら、早速《さっそく》寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。
「慎ちゃん。お早う。」
「お早う、お母さんは?」
「昨夜《ゆうべ》はずっと苦しみ通し。――」
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――私《わたし》夜中《よなか》に気味が悪くなってしまった。」
もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇《たたず》んでいた。そこから見える台所のさきには、美津《みつ》が裾を端折《はしょ》ったまま、雑巾《ぞうきん》か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮《しんちゅう》の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚《はばか》られるような心もちがした。
「妙な事ってどんな事を?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は戸沢《とざわ》さんが来ているわ。」
「早いな。」
慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
五分の後《のち》、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は枕もとの看護婦に、後《あと》の手当をして貰いながら、昨夜《ゆうべ》父が云った通り、絶えず白い括《くく》り枕の上に、櫛巻《くしま》きの頭を動かしていた。
「慎太郎が来たよ。」
戸沢の側に坐っていた父は声高《こわだか》に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。
彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには洋一《よういち》が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。
「手を握っておやり。」
慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌《たなごころ》に母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗《あぶらあせ》に、気味悪くじっとり沾《しめ》っていた。
母は彼の顔を見ると、頷《うなず》くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、
「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。
「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒《しんぼう》です。」
戸沢は手を洗っていた。
「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」
母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神《うじがみ》の御札《おふだ》が、柴又《しばまた》の帝釈《たいしゃく》の御影《みえい》なぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。――母は上眼《うわめ》にその盆を見ながら、喘《あえ》ぐように切れ切れな返事をした。
「昨夜《ゆうべ》、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今朝《けさ》は、お肚《なか》の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」
父は小声に看護婦へ云った。
「少し舌がつれるようですね。」
「口が御|粘《ねば》りになるんでしょう。――これで水をさし上げて下さい。」
慎太郎は看護婦の手から、水に浸《ひた》した筆を受け取って、二三度母の口をしめした。母は筆に舌を搦《から》んで、乏しい水を吸うようにした。
「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」
戸沢は鞄《かばん》の始末をすると、母の方へこう大声に云った。それから看護婦を見返りながら、
「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。
看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。
慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の間《ま》には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――戸沢はその前を通る時、叮嚀《ていねい》な叔母の挨拶に無造作《むぞうさ》な目礼を返しながら、後《あと》に従った慎太郎へ、
「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
慎太郎も苦笑した。
「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の忰《せがれ》なんぞが受験準備をしているせいですな。――」
戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。
医者が雨の中を帰った後《のち》、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一《よういち》が巻煙草を啣《くわ》えていた。
「眠いだろう?」
慎太郎はしゃがむように、長火鉢の縁《ふち》へ膝《ひざ》を当てた。
「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」
「うん、――昨夜《ゆうべ》夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」
洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛《ほう》りこんだ。
「でもお母さんが唸《うな》らなくなったから好いや。」
「ちっとは楽になったと見えるねえ。」
叔母は母の懐炉《かいろ》に入れる懐炉灰を焼きつけていた。
「四時までは苦しかったようですがね。」
そこへ松が台所から、銀杏返《いちょうがえ》しのほつれた顔を出した。
「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」
「はい、はい、今行きます。」
叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」
叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸《あくび》を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡《もた》げた。
「僕も一寝入りして来るかな。」
慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。
すると突然次の間《ま》から、慌《あわただ》しく看護婦が駆けこんで来た。
「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」
慎太郎は咄嗟《とっさ》に身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。そうして逞《たくま》しい両腕に、しっかりお律《りつ》を抱き上げていた。
「お母さん。お母さん。」
母は彼に抱かれたまま、二三度体を震《ふる》わせた。それから青黒い液体を吐いた。
「お母さん。」
誰もまだそこへ来ない何秒かの間《あいだ》、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。
[#地から1字上げ](大正九年十月二十三日)
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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