齔lは、ちょうど踏台の上にのりながら、高い棚《たな》に積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。
「ただ今じゃありませんよ。もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」
「そうか。そんなら美津のやつ、そう云えば好いのに。」
洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。が、ふと店の時計を見ると、不審《ふしん》そうにそこへ立ち止った。
「おや、この時計は二十分過ぎだ。」
「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう。」
神山は体を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ねじ》りながら、帯の金時計を覗いて見た。
「そうです。ちょうど十分過ぎ。」
「じゃやっぱり奥の時計が遅れているんだ。それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」
洋一はちょいとためらった後《のち》、大股《おおまた》に店さきへ出かけて行くと、もう薄日《うすび》もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。
「来そうもないな。まさか家《うち》がわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」
彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履《いたぞうり》の上へ飛び下りた。そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。
大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。そこの角《かど》にある店蔵《みせぐら》が、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋《とうぶつや》になっている。――その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽《むぎわらぼう》や籐《とう》の杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手《はで》な海水着が人間のように突立っていた。
洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を後《うしろ》に佇《たたず》みながら、大通りを通る人や車に、苛立《いらだ》たしい視線を配《くば》り始めた。が、しばらくそうしていても、この問屋《とんや》ばかり並んだ横町《よこちょう》には、人力車《じんりきしゃ》一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車《あきぐるま》の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。
その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。そうしてペダルに足をかけたまま、
「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。
「何か用だったかい?」
洋一はそう云う間でも、絶えず賑《にぎやか》な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。
「用は別にないんだそうで、――」
「お前はそれを云いに来たの?」
「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」
「お父さんが?」
洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りも疎《まばら》な往来には、ちょうど今一台の人力車《じんりきしゃ》が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒《かじぼう》の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
「兄さん!」
車夫は体を後《うしろ》に反《そ》らせて、際《きわ》どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎《しんたろう》が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟《はさ》んだトランクを骨太な両手に抑えていた。
「やあ。」
兄は眉《まゆ》一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。
「お母さんはどうした?」
洋一は兄を見上ながら、体中《からだじゅう》の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。
「この二三日悪くってね。――十二指腸の潰瘍《かいよう》なんだそうだ。」
「そうか。そりゃ――」
慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃《ひらめ》いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。
「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」
車夫は慎太郎の合図《あいず》と一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今朝《けさ》上《のぼ》りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映《うつ》るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目《しにめ》に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い耽《ふけ》っている彼だった。しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……
「兄さん。試験はまだ始らなかった?」
慎太郎は体を斜《ななめ》にして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
「明日《あす》からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」
洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟を劬《いたわ》りたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。
「よっぽど待ったかい?」
「十分も待ったかしら?」
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」
車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒《かじぼう》を店の前へ下《おろ》した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸《ガラスど》の立った店の前へ。
四
一時間の後《のち》店の二階には、谷村博士《たにむらはかせ》を中心に、賢造《けんぞう》、慎太郎《しんたろう》、お絹《きぬ》の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はお律《りつ》の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格の逞《たくま》しい谷村博士は、すすめられた茶を啜《すす》った後《のち》、しばらくは胴衣《チョッキ》の金鎖《きんぐさり》を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、
「戸沢《とざわ》さんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。
「ただ今電話をかけさせました。――すぐに上《あが》るとおっしゃったね。」
賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈《きゅうくつ》そうな膝《ひざ》を重ねていた。
「ええ、すぐに見えるそうです。」
「じゃその方《かた》が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」
谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。
「当年は梅雨《つゆ》が長いようです。」
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」
お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋《ごふくや》の主人は、短い口髭《くちひげ》に縁《ふち》無しの眼鏡《めがね》と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒《はがゆ》さを感じながら、剛情に一人黙っていた。
しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間に交《まじ》ったのは、それから間《ま》もない後《のち》の事だった。黒絽《くろろ》の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃《いんぎん》な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、
「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北|訛《なまり》の声をかけた。
「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」
谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。
「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」
戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態《ようだい》を可成《かなり》詳細に説明した。慎太郎には薄い博士の眉《まゆ》が、戸沢の処方《しょほう》を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。
しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様《おおよう》に、二三度独り頷《うなず》いて見せた。
「いや、よくわかりました。無論十二指腸の潰瘍《かいよう》です。が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。何しろこう下腹《したはら》が押し上げられるように痛いと云うんですから――」
「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」
戸沢はセルの袴《はかま》の上に威《い》かつい肘《ひじ》を張りながら、ちょいと首を傾けた。
しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。
「熱なぞはそれでも昨日《きのう》よりは、ずっと低いようですが、――」
その内にやっと賢造は、覚束ない反問の口を切った。しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作《むぞうさ》にその言葉を遮《さえぎ》った。
「それがいかんですな。熱はずんずん下《さが》りながら、脈搏は反《かえ》ってふえて来る。――と云うのがこの病の癖なんですから。」
「なるほど、そう云うものですかな。こりゃ我々若いものも、伺って置いて好《い》い事ですな。」
お絹の夫は腕組みをした手に、時々|口髭《くちひげ》をひっぱっていた。慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。
「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候《ちょうこう》も見えないようでしたがな。――」
戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透《す》かさず愛想《あいそ》の好い返事をした。
「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった後《あと》で発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」
「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」
慎太郎は険《けわ》しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうな※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
「今はとても動かせないです。まず差当《さしあた》りは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――今夜はまだ中々痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」
谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣《チョッキ》の時計を出して見ると、
「じゃ私はもう御暇《おいとま》します。」と、すぐに背広の腰を擡《もた》げた。
慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診《らいしん》の礼を述べた。が、その間《あいだ》も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。
「どうか博士もまた二三日|中《うち》に、もう一度御診察を願いたいもので、――」
戸沢は挨拶《あいさつ》をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。
「ええ、上《あが》る事はいつでも上りますが、――」
これが博士の最後の言葉だった。慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子《はしご》を下《お》りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………
五
戸沢《とざわ》やお絹《きぬ》の夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎《しんたろう》は、浅川《あさかわ》の叔母《おば》や洋一《よういち》と一しょに、茶の間《ま》の長火鉢を囲んでいた。襖《ふすま》の向うからは不相変《あいかわらず》、お律《りつ》の唸《うな》り声が聞えて来た。彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。
「いけないねえ。ああ始終苦しくっちゃ、――」
叔母は火箸《ひばし》を握ったまま、
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