コをかけた。
「慎ちゃん。お早う。」
「お早う、お母さんは?」
「昨夜《ゆうべ》はずっと苦しみ通し。――」
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――私《わたし》夜中《よなか》に気味が悪くなってしまった。」
 もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇《たたず》んでいた。そこから見える台所のさきには、美津《みつ》が裾を端折《はしょ》ったまま、雑巾《ぞうきん》か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮《しんちゅう》の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚《はばか》られるような心もちがした。
「妙な事ってどんな事を?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は戸沢《とざわ》さんが来ているわ。」
「早いな。」
 慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
 五分の後《のち》、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は
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