ミ手に下げたなり、何の木か木《こ》の芽の煙った梢《こずえ》を残惜《のこりお》しそうに見上げていた。――
その時また彼の耳には、誰かの梯子《はしご》を上って来る音がみしりみしり聞え出した。急に不安になった彼は半ば床《とこ》から身を起すと、
「誰?」と上り口へ声をかけた。
「起きていたのか?」
声の持ち主は賢造だった。
「どうかしたんですか?」
「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」
父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団《ふとん》の上へ横になった。
「用って、悪いんじゃないんですか?」
「何、用って云った所が、ただ明日《あした》工場《こうば》へ行くんなら、箪笥《たんす》の上の抽斗《ひきだし》に単衣物《ひとえもの》があるって云うだけなんだ。」
慎太郎は母を憐んだ。それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。
「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」
「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」
「注射はそう度々は出来ないんだそうだから、――どうせいけ
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