ス》げた。
「今日《こんにち》は。お父さんはもうお出かけかえ?」
「ええ、今し方。――お母さんにも困りましたね。」
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」
 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝《ひざ》を据えた。襖《ふすま》一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立《いらだ》たしいものにさせるのだった。叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、
「お絹《きぬ》ちゃんが今来るとさ。」と云った。
「姉さんはまだ病気じゃないの?」
「もう今日は好いんだとさ。何、またいつもの鼻っ風邪《かぜ》だったんだよ。」
 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑《ぶべつ》を帯びた中に、反《かえ》って親しそうな調子があった。三人きょうだいがある内でも、お律《りつ》の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。それには賢造の先妻が、叔母の身内《みうち》だと云う理由もある。――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間《あいだ》は不承不承《ふしょうぶしょう》に、一昨年《いっさくねん》あ
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