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慎太郎は体を斜《ななめ》にして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
「明日《あす》からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」
洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟を劬《いたわ》りたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。
「よっぽど待ったかい?」
「十分も待ったかしら?」
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」
車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒《かじぼう》を店の前へ下《おろ》した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸《ガラスど》の立った店の前へ。
四
一時間の後《のち》店の二階には、谷村博士《たにむらはかせ》を中心に、賢造《けんぞう》、慎太郎《しんたろう》、お絹《きぬ》の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はお律《りつ》の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった
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