ホ、寝返りをするのも楽そうだった。「お肚《なか》はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――母自身もそう云っていた。その上あんなに食気《しょっけ》までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外|恢復《かいふく》は容易かも知れない。――洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。が、余り虫の好《い》い希望を抱き過ぎると、反《かえ》ってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみた惧《おそ》れも多少はあった。
「若旦那様《わかだんなさま》、御電話でございます。」
 洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。美津《みつ》は袂《たもと》を啣《くわ》えながら、食卓に布巾《ふきん》をかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、松《まつ》と云う年上の女中だった。松は濡れ手を下げたなり、銅壺《どうこ》の見える台所の口に、襷《たすき》がけの姿を現していた。
「どこだい?」
「どちらでございますか、――」
「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」
 洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間《ま》を出て行った。おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口《あっこう
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