纐「聞《ぜんだいみもん》だと云う恐慌《きょうこう》が来ている。現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代払《だいばら》いの厄に遇った。そのほかまだ何だ彼《か》だといろいろな打撃を通算したら、少くとも三万円内外は損失を蒙《こうむ》っているのに相違ない。――そんな事も洋一は、小耳に挟んでいたのだった。
「ちっとやそっとでいてくれりゃ好《い》いが、――何しろこう云う景気じゃ、いつ何時《なんどき》うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」
 賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。それから隔ての襖《ふすま》を明けると、隣の病室へはいって行った。
「ソップも牛乳もおさまった? そりゃ今日は大出来《おおでき》だね。まあ精々《せいぜい》食べるようにならなくっちゃいけない。」
「これで薬さえ通ると好いんですが、薬はすぐに吐いてしまうんでね。」
 こう云う会話も耳へはいった。今朝は食事前に彼が行って見ると、母は昨日《きのう》一昨日《おととい》よりも、ずっと熱が低くなっていた。口を利《き》くのもはきはきしていれ
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