ノそう云ってね。好いかい?――それでおしまい。」
お律はこう云い終ると、頭の位置を変えようとした。その拍子に氷嚢《ひょうのう》が辷り落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜか※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟《とっさ》にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。
「莫迦《ばか》だね。」
母はかすかに呟《つぶや》いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。
顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間《ま》へ帰って来た。帰って来ると浅川の叔母《おば》が、肩越しに彼の顔を見上げて、
「どうだえ? お母さんは。」と声をかけた。
「目がさめています。」
「目はさめているけれどさ。」
叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。姉は上眼《うわめ》を使いながら、笄《かんざし》で髷《まげ》の根を掻《か》いていたが、やがてその手を火鉢へやると、
「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。
「云わない。姉さんが行って云うと好いや
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