「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」
洋一は父の言葉を奪った。
「戸沢《とざわ》さんは何だって云うんです?」
「やっぱり十二指腸の潰瘍《かいよう》だそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」
賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。
「しかしあしたは谷村博士《たにむらはかせ》に来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」
「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」
「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川《あさかわ》の叔母《おば》さんが来ているぜ。」
賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。愚図愚図《ぐずぐず》している場合じゃない――そんな事もはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上ると、真鍮《しんちゅう》の手すりに手を触れながら、どしどし梯子《はしご》を下りて行った。
まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明《
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