お律と子等と
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)洋一《よういち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)始終|爛《ただ》れている眼を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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一
雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一《よういち》は、二階の机に背を円《まる》くしながら、北原白秋《きたはらはくしゅう》風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇《そうこう》と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造《けんぞう》は、夏外套《なつがいとう》をひっかけたまま、うす暗い梯子《はしご》の上り口へ胸まで覗《のぞ》かせているだけだった。
「どうもお律《りつ》の容態《ようだい》が思わしくないから、慎太郎《しんたろう》の所へ電報を打ってくれ。」
「そんなに悪いの?」
洋一は思わず大きな声を出した。
「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」
洋一は父の言葉を奪った。
「戸沢《とざわ》さんは何だって云うんです?」
「やっぱり十二指腸の潰瘍《かいよう》だそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」
賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。
「しかしあしたは谷村博士《たにむらはかせ》に来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」
「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」
「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川《あさかわ》の叔母《おば》さんが来ているぜ。」
賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。愚図愚図《ぐずぐず》している場合じゃない――そんな事もはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上ると、真鍮《しんちゅう》の手すりに手を触れながら、どしどし梯子《はしご》を下りて行った。
まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明《あまあか》りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後《うしろ》を向けたまま、もう入口に直した足駄《あしだ》へ、片足下している所だった。
「旦那《だんな》。工場《こうば》から電話です。今日《きょう》あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」
洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」
電話の切れるのが合図《あいず》だったように、賢造は大きな洋傘《こうもり》を開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥を刷《は》いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。
「神山《かみやま》さんはいないのかい?」
洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良《りょう》さん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know ですな。」
そう答えた店員は、上り框《がまち》にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥《ふと》った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼は始《はじめ》こう書いたが、すぐにまた紙を裂《さ》いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆《ぜんちょう》のように、頭にこびりついて離れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後《のち》、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後《うしろ》にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間《ま》へ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦《ひごよみ》が懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻《みみか》きを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終|爛《ただ》れている眼を擡《も
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