ス》げた。
「今日《こんにち》は。お父さんはもうお出かけかえ?」
「ええ、今し方。――お母さんにも困りましたね。」
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」
 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝《ひざ》を据えた。襖《ふすま》一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立《いらだ》たしいものにさせるのだった。叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、
「お絹《きぬ》ちゃんが今来るとさ。」と云った。
「姉さんはまだ病気じゃないの?」
「もう今日は好いんだとさ。何、またいつもの鼻っ風邪《かぜ》だったんだよ。」
 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑《ぶべつ》を帯びた中に、反《かえ》って親しそうな調子があった。三人きょうだいがある内でも、お律《りつ》の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。それには賢造の先妻が、叔母の身内《みうち》だと云う理由もある。――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間《あいだ》は不承不承《ふしょうぶしょう》に、一昨年《いっさくねん》ある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉の噂《うわさ》をしていた。
「慎《しん》ちゃんの所はどうおしだえ? お父さんは知らせた方が好《い》いとか云ってお出でだったけれど。」
 その噂が一段落着いた時、叔母は耳掻きの手をやめると、思い出したようにこう云った。
「今、電報を打たせました。今日《きょう》中にゃまさか届くでしょう。」
「そうだねえ。何も京大阪と云うんじゃあるまいし、――」
 地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧《あいまい》だった。それが何故《なぜ》か唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。兄は帰って来るだろうか?――そう思うと彼は電報に、もっと大仰《おおぎょう》な文句を書いても、好かったような気がし出した。母は兄に会いたがっている。が、兄は帰って来ない。その内に母は死んでしまう。すると姉や浅川の叔母が、親不孝だと云って兄を責める。――こんな光景も一瞬間、はっきり眼の前に見えるような気がした。
「今日届けば、あしたは帰りますよ。」
 洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを云い聞かせていた。
 そこへちょうど店の神山《かみやま》が、汗ばんだ額《ひたい》を光らせながら、足音を偸《ぬす》むようにはいって来た。なるほどどこかへ行った事は、袖《そで》に雨《あま》じみの残っている縞絽《しまろ》の羽織にも明らかだった。
「行って参りました。どうも案外待たされましてな。」
 神山は浅川の叔母に一礼してから、懐《ふところ》に入れて来た封書を出した。
「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」
 叔母はその封書を開く前に、まず度《ど》の強そうな眼鏡《めがね》をかけた。封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。
「どこ? 神山さん、この太極堂《たいきょくどう》と云うのは。」
 洋一《よういち》はそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。
「二町目の角に洋食屋がありましょう。あの露路《ろじ》をはいった左側です。」
「じゃ君の清元《きよもと》の御師匠さんの近所じゃないか?」
「ええ、まあそんな見当です。」
 神山はにやにや笑いながら、時計の紐《ひも》をぶら下げた瑪瑙《めのう》の印形《いんぎょう》をいじっていた。
「あんな所に占《うらな》い者《しゃ》なんぞがあったかしら。――御病人は南枕《みなみまくら》にせらるべく候か。」
「お母さんはどっち枕だえ?」
 叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。
「東枕《ひがしまくら》でしょう。この方角が南だから。」
 多少心もちの明《あかる》くなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂《たもと》の底にある巻煙草の箱を探っていた。
「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。――神山さん。一本上げようか? 抛《ほう》るよ。失敬。」
「こりゃどうも。E・C・Cですな。じゃ一本頂きます――。もうほかに御用はございませんか? もしまたございましたら、御遠慮なく――」
 神山は金口《きんぐち》を耳に挟《はさ》みながら、急に夏羽織の腰を擡《もた》げて、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》店の方へ退こうとした。その途端に障子が明くと、頸《くび》に湿布《しっぷ》を巻いた姉のお絹《きぬ》が、まだセルのコオトも脱がず、果物《くだもの》の籠を下げてはいって来た。
「おや、お出でなさい。」
「降りますのによくまた、――」
 そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山と
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