コをかけた。
「慎ちゃん。お早う。」
「お早う、お母さんは?」
「昨夜《ゆうべ》はずっと苦しみ通し。――」
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――私《わたし》夜中《よなか》に気味が悪くなってしまった。」
もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇《たたず》んでいた。そこから見える台所のさきには、美津《みつ》が裾を端折《はしょ》ったまま、雑巾《ぞうきん》か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮《しんちゅう》の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚《はばか》られるような心もちがした。
「妙な事ってどんな事を?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は戸沢《とざわ》さんが来ているわ。」
「早いな。」
慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
五分の後《のち》、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は枕もとの看護婦に、後《あと》の手当をして貰いながら、昨夜《ゆうべ》父が云った通り、絶えず白い括《くく》り枕の上に、櫛巻《くしま》きの頭を動かしていた。
「慎太郎が来たよ。」
戸沢の側に坐っていた父は声高《こわだか》に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。
彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには洋一《よういち》が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。
「手を握っておやり。」
慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌《たなごころ》に母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗《あぶらあせ》に、気味悪くじっとり沾《しめ》っていた。
母は彼の顔を見ると、頷《うなず》くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、
「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。
「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒《しんぼう》です。」
戸沢は手を洗っていた。
「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」
母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神《うじがみ》の御札《おふだ》が、柴又《しばまた》の帝釈《たいしゃく》の御影《みえい
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