ネけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」
 賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。
「お前のお母さんなんぞは後生《ごしょう》も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」
 二人はしばらく黙っていた。
「みんなまだ起きていますか?」
 慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。
「叔母さんは寝ている。が、寝られるかどうだか、――」
 父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡《もた》げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。
「お父さん。お母さんがちょいと、――」
 今度は梯子《はしご》の中段から、お絹《きぬ》が忍びやかに声をかけた。
「今行くよ。」
「僕も起きます。」
 慎太郎は掻巻《かいま》きを刎《は》ねのけた。
「お前は起きなくっても好いよ。何かありゃすぐに呼びに来るから。」
 父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。
 慎太郎は床《とこ》の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。それからまた坐ったまま、電燈の眩《まぶ》しい光の中に、茫然《ぼうぜん》とあたりを眺め廻した。母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に床《とこ》の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。――そんな事もふと思われるのだった。
 すると字を書いた罫紙《けいし》が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気《なにげ》なくそれを取り上げた。
「M子に献ず。……」
 後《あと》は洋一の歌になっていた。
 慎太郎はその罫紙を抛《ほう》り出すと、両手を頭の後《うしろ》に廻しながら、蒲団の上へ仰向《あおむ》けになった。そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。…………

        七

 慎太郎《しんたろう》がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお絹《きぬ》と賢造《けんぞう》とが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。
「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」
 賢造はお絹にこう云ったなり、忙《いそが》しそうに梯子《はしご》を下りて行った。
 窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降《おおぶ》りだな、――慎太郎はそう思いながら、早速《さっそく》寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ
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