Aこの春以来顔を見ない、彼には父が違っている、兄の事が浮んで来た。彼には父が違っている、――しかしそのために洋一は、一度でも兄に対する情《じょう》が、世間普通の兄弟に変っていると思った事はなかった。いや、母が兄をつれて再縁したと云う事さえ、彼が知るようになったのは、割合に新しい事だった。ただ父が違っていると云えば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。――
 それはまだ兄や彼が、小学校にいる時分だった。洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。が、時々|蔑《さげす》むようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。洋一はとうとうかっ[#「かっ」に傍点]となって、そこにあったトランプを掴《つか》むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。トランプは兄の横顔に中《あた》って、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬を撲《ぶ》った。
「生意気《なまいき》な事をするな。」
 そう云う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。兄は彼に比べると、遥に体も大きかった。しかし彼は兄よりもがむしゃらな所に強味があった。二人はしばらく獣《けもの》のように、撲《なぐ》ったり撲られたりし合っていた。
 その騒ぎを聞いた母は、慌ててその座敷へはいって来た。
「何をするんです? お前たちは。」
 母の声を聞くか聞かない内に、洋一はもう泣き出していた。が、兄は眼を伏せたまま、むっつり佇《たたず》んでいるだけだった。
「慎太郎。お前は兄さんじゃないか? 弟を相手に喧嘩《けんか》なんぞして、何がお前は面白いんだえ?」
 母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。
「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」
「嘘つき。兄さんがさきに撲《ぶ》ったんだい。」
 洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対した。
「ずる[#「ずる」に傍点]をしたのも兄さんだい。」
「何。」
 兄はまた擬勢《ぎせい》を見せて、一足彼の方へ進もうとした。
「それだから喧嘩になるんじゃないか? 一体お前が年嵩《としかさ》な癖に勘弁《かんべん》してやらないのが悪いんです。」
 母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。すると兄の眼の色が、急
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