ノ無気味《ぶきみ》なほど険しくなった。
「好いやい。」
兄はそう云うより早く、気違いのように母を撲《ぶ》とうとした。が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。――
母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記憶になかった。しかし兄の口惜《くや》しそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。兄はただ母に叱られたのが、癇癪《かんしゃく》に障《さわ》っただけかも知れない。もう一歩|臆測《おくそく》を逞《たくまし》くするのは、善くない事だと云う心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。しかもそう云う気がし出したのには、もう一つ別な記憶もある。――
三年|前《まえ》の九月、兄が地方の高等学校へ、明日《あす》立とうと云う前日だった。洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座《ぎんざ》まで出かけて行った。
「当分|大時計《おおどけい》とも絶縁だな。」
兄は尾張町《おわりちょう》の角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。
「だから一高《いちこう》へはいりゃ好いのに。」
「一高へなんぞちっともはいりたくはない。」
「負惜しみばかり云っていらあ。田舎《いなか》へ行けば不便だぜ。アイスクリイムはなし、活動写真はなし、――」
洋一は顔を汗ばませながら、まだ冗談のような調子で話し続けた。
「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」
「そんな事は当り前だ。」
「じゃお母さんでも死んだら、どうする?」
歩道の端《はし》を歩いていた兄は、彼の言葉に答える前に、手を伸ばして柳の葉をむしった。
「僕はお母さんが死んでも悲しくない。」
「嘘つき。」
洋一は少し昂奮《こうふん》して云った。
「悲しくなかったら、どうかしていらあ。」
「嘘じゃない。」
兄の声には意外なくらい、感情の罩《こも》った調子があった。
「お前はいつでも小説なんぞ読んでいるじゃないか? それなら、僕のような人間のある事も、すぐに理解出来そうなもんだ。――可笑《おか》しな奴だな。」
洋一は内心ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。と同時にあの眼つきが、――母を撲《ぶ》とうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。が、そっと兄の容子《ようす》を見ると、兄
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