ホ、寝返りをするのも楽そうだった。「お肚《なか》はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――母自身もそう云っていた。その上あんなに食気《しょっけ》までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外|恢復《かいふく》は容易かも知れない。――洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。が、余り虫の好《い》い希望を抱き過ぎると、反《かえ》ってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみた惧《おそ》れも多少はあった。
「若旦那様《わかだんなさま》、御電話でございます。」
洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。美津《みつ》は袂《たもと》を啣《くわ》えながら、食卓に布巾《ふきん》をかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、松《まつ》と云う年上の女中だった。松は濡れ手を下げたなり、銅壺《どうこ》の見える台所の口に、襷《たすき》がけの姿を現していた。
「どこだい?」
「どちらでございますか、――」
「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」
洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間《ま》を出て行った。おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口《あっこう》を聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。
店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村《たむら》と云う薬屋の息子だった。
「今日ね。一しょに明治座《めいじざ》を覗かないか? 井上だよ。井上なら行くだろう?」
「僕は駄目だよ。お袋が病気なんだから――」
「そうか。そりゃ失敬した。だが残念だね。昨日|堀《ほり》や何かは行って見たんだって。――」
そんな事を話し合った後《のち》、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯子《はしご》を上《あが》って、例の通り二階の勉強部屋へ行った。が、机に向って見ても、受験の準備は云うまでもなく、小説を読む気さえ起らなかった。机の前には格子窓《こうしまど》がある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋《おもちゃどんや》の前に、半天着《はんてんぎ》の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙《きぜわ》しそうな気がして不快だった。と云ってまた下へ下《お》りて行くのも、やはり気が進まなかった。彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕にしながら、ごろりと畳に寝ころんでしまった。
すると彼の心には
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