お上《かみ》さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか? 三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか? わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」
「ようござんすよ。もう笑ひはしませんよ。」
 新公はそれでも笑ひ笑ひ、お富の言葉を遮《さへぎ》つた。
「もう笑ひはしませんがね。まあ、考へて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」
「お黙りよ! お上さんの讒訴《ざんそ》なぞは聞きたくないよ!」
 お富は殆どぢだんだを踏んだ。が、乞食は思ひの外彼女の権幕には驚かなかつた。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは何処《どこ》を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露《あら》はに肉体を語つてゐた。しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。
「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。ねえ、さうぢやありませんか? 今ぢやもう上野界隈、立ち退《の》かない家はありませんや。して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――と、まづ云つたものぢやありませんか?」
「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」
「冗談云つちやいけません。若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。万一わたしが妙な気でも出したら、姐《ねえ》さん、お前さんはどうしなさるね?」
 新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。しかし澄んだお富の目には、恐怖らしい影さへ見えなかつた。
 唯その頬には、さつきよりも、一層血の色がさしたらしかつた。
「何だい、新公、――お前はわたしを嚇《おど》かさうつて云ふのかい?」
 お富は彼女自身嚇かすやうに、一足新公の側へ寄つた。
「嚇かすえ? 嚇かすだけならば好いぢやありませんか? 肩に金切《きんぎ》れなんぞくつけてゐたつて、風《ふう》の悪いやつらも多い世の中だ。ましてわたしは乞食ですぜ。嚇かすばかりとは限りませんや。もしほんたうに妙な気を出したら、……」
 新公は残らず云はない内に、したたか頭を打ちのめされた。お富は何時か彼の前に、大黒傘をふり上げてゐたのだつた。
「生意気な事をお云ひでない。」
 お富は又新公の頭へ、力一ぱい傘を打ち下した。新公は咄嗟《とつさ》に身を躱《かは》さうとした。が、傘はその途端に、古|湯帷子《ゆかた》の肩を打ち据ゑてゐた。この騒ぎに驚いた猫は、鉄鍋を一つ蹴落しながら、荒神《くわうじん》の棚へ飛び移つた。と同時に荒神の松や油光りのする燈明皿も、新公の上へ転げ落ちた。新公はやつと飛び起きる前に、まだ何度もお富の傘に、打ちのめされずにはすまなかつた。
「こん畜生! こん畜生!」
 お富は傘を揮《ふる》ひ続けた。が、新公は打たれながらも、とうとう傘を引つたくつた。のみならず傘を投げ出すが早いか猛然とお富に飛びかかつた。二人は狭い板の間の上に、少時《しばらく》の間|掴《つか》み合つた。この立ち廻りの最中に、雨は又台所の屋根へ、凄《すさ》まじい音を湊《あつ》め出した。光も雨音の高まるのと一しよに、見る見る薄暗さを加へて行つた。新公は打たれても、引つ掻かれても、遮二無二《しやにむに》お富を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》ぢ伏せようとした。しかし何度か仕損じた後、やつと彼女に組み付いたと思ふと、突然又|弾《はじ》かれたやうに、水口の方へ飛びすさつた。
「この阿魔あ!……」
 新公は障子を後ろにしたなり、ぢつとお富を睨《にら》みつけた。何時か髪も壊れたお富は、べつたり板の間に坐りながら、帯の間に挾んで来たらしい剃刀《かみそり》を逆手《さかて》に握つてゐた。それは殺気を帯びてもゐれば、同時に又妙に艶《なま》めかしい、云はば荒神の棚の上に、背を高めた猫と似たものだつた。二人はちよいと無言の儘、相手の目の中を窺《うかが》ひ合つた。が、新公は一瞬の後、わざとらしい冷笑を見せると、懐《ふところ》からさつきの短銃を出した。
「さあ、いくらでもぢたばたして見ろ。」
 短銃の先は徐《おもむ》ろに、お富の胸のあたりへ向つた。
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