それでも彼女は口惜《くや》しさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。新公は彼女が騒がないのを見ると、今度は何か思ひついたやうに、短銃の先を上に向けた。その先には薄暗い中に、琥珀《こはく》色の猫の目が仄《ほの》めいてゐた。
「好《い》いかい? お富さん。――」
新公は相手をじらすやうに、笑ひを含んだ声を出した。
「この短銃がどん[#「どん」に傍点]と云ふと、あの猫が逆様に転げ落ちるんだ。お前さんにしても同じ事だぜ。そら好いかい?」
引き金はすんでに落ちようとした。
「新公!」
突然お富は声を立てた。
「いけないよ。打つちやいけない。」
新公はお富へ目を移した。しかしまだ短銃の先は、三毛猫に狙ひを定めてゐた。
「いけないのは知れた事だ。」
「打つちや可哀さうだよ。三毛だけは助けておくれ。」
お富は今までとは打つて変つた、心配さうな目つきをしながら、心もち震へる唇《くちびる》の間に、細かい歯並みを覗かせてゐた。新公は半ば嘲《あざけ》るやうに、又半ば訝《いぶか》るやうに、彼女の顔を眺めたなり、やつと短銃の先を下げた。と同時にお富の顔には、ほつとした色が浮んで来た。
「ぢや猫は助けてやらう。その代り。――」
新公は横柄《わうへい》に云ひ放つた。
「その代りお前さんの体を借りるぜ。」
お富はちよいと目を外《そ》らせた。一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。茶の間は台所に比べれば、勿論一層薄暗かつた。が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した茶箪笥《ちやだんす》や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。新公は其処に佇《たたず》んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。するとそれを感じたのか、お富は体を捻《ねぢ》るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、活《い》き活きした色が返つてゐた。しかし新公は狼狽《らうばい》したやうに、妙な瞬《またた》きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。
「いけないよ。いけないつてば。――」
お富は彼を止めると同時に、手の中の剃刀《かみそり》を板の間へ落した。
「いけなけりやあすこへお行きなさいな。」
新公は薄笑ひを浮べてゐた。
「いけ好かない!」
お富は忌々《いまいま》しさうに呟《つぶや》いた。が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子《ようす》だつた。雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――それぎり茶の間はしんとしてしまつた。
新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽《おほ》つた儘、ぢつと仰向《あふむ》けに横たはつてゐた。新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が漲《みなぎ》つてゐた。それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。
「冗談だ。お富さん。冗談だよ。もうこつちへ出て来ておくんなさい。……」
――何分かの後、懐《ふところ》に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、破《や》れ筵《むしろ》を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。
「姐《ねえ》さん。わたしは少しお前さんに、訊《き》きたい事があるんですがね。――」
新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。
「何をさ!」
「何をつて事もないんですがね。――まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか?」
新公はちよいと口を噤《つぐ》んだ。がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を劬《いたは》つてゐた。
「そんなにその猫が可愛いんですかい?」
「そりや三毛も可愛いしね。――」
お富は煮え切らない返事をした。
「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。三毛が殺されたとなつた日にや、この家の上《かみ》さんに申し訣がない。――と云ふ心配でもあつたんですかい?」
「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にや違ひないんだよ。けれどもただわたしはね。――」
お富は小首を傾けながら、
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