明日はお前にも大厄日だ。おれも明日は死ぬかも知れない。よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜《はきだ》めあさりはしないつもりだ。さうすればお前は大喜びだらう。」
 その内に雨は又一しきり、騒がしい音を立て始めた。雲も棟瓦《むねがはら》を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填《さうてん》してゐた。
「それとも名残りだけは惜しんでくれるか? いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――が、まあ、そんな事はどうでも好《い》いや。唯おれもゐないとすると、――」
 乞食は急に口を噤《つぐ》んだ。途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は咄嗟《とつさ》に身構へながら、まともに闖入者《ちんにふしや》と眼を合せた。
 すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。それは素裸足《すはだし》に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透《す》かしながら、ぢつと乞食の顔を覗《のぞ》きこんだ。
 乞食は呆気《あつけ》にとられたのか、古|湯帷子《ゆかた》の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色《けしき》は見えなかつた。二人は黙然《もくねん》と少時《しばらく》の間、互に眼と眼を見合せてゐた。
「何だい、お前は新公ぢやないか?」
 彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。
「どうも相済みません。あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた訣《わけ》でもないんです。」
「驚かせるよ、ほんたうに――いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」
 彼女は傘の滴《しづく》を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。
「さあ、こつちへ出ておくれよ。わたしは家へはひるんだから。」
「へえ、出ます。出ろと仰有《おつしや》らないでも出ますがね。姐《ねえ》さんはまだ立ち退《の》かなかつたんですかい?」
「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか?」
「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」
 彼女はまだ業腹《ごふはら》さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は髭《ひげ》だらけの顋《あご》をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑《そばかす》のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉《こくら》の帯しかしてゐなかつた。が、活《い》き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。
「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は? え、姐《ねえ》さん。――お富さん。」
 新公は又尋ね続けた。
「何だつて好《い》いぢやないか? それよりさつさと出て行つておくれよ。」
 お富の返事は突慳貪《つつけんどん》だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。
「新公、お前、家の三毛を知らないかい?」
「三毛? 三毛は今|此処《ここ》に、――おや、何処《どこ》へ行きやがつたらう?」
 乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢《すりばち》や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は柄杓《ひしやく》を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。
 新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。
「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは?」
「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」
 新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆《ほとんど》気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照《ほて》らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。
「何が可笑《をか》しんだい? 家の
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