ある。なるほどぼんやり耳を貸していると、ああ云う風にも聞えないことはない。――そんなことを考えたのも覚えている。
 保吉は物憂《ものう》い三十分の後《のち》、やっとあの避暑地の停車場《ていしゃば》へ降りた。プラットフォオムには少し前に着いた下り列車も止っている。彼は人ごみに交《まじ》りながら、ふとその汽車を降りる人を眺めた。すると――意外にもお嬢さんだった。保吉は前にも書いたように、午後にはまだこのお嬢さんと一度も顔を合せたことはない。それが今不意に目の前へ、日の光りを透《す》かした雲のような、あるいは猫柳《ねこやなぎ》の花のような銀鼠《ぎんねずみ》の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀《じぎ》をしてしまった。
 お時儀をされたお嬢さんはびっくりしたのに相違あるまい。が、どう云う顔をしたか、生憎《あいにく》もう今では忘れている。いや、当時もそんなことは見定《みさだ》める余裕を持たなかったのであろう。彼は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照《ほて》り出すのを感じた。けれどもこれだけは
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング