五六年|前《まえ》に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、煙突から迸《ほとばし》る火花のようにたちまちよみがえって来るのである。
 このお嬢さんに遇《あ》ったのはある避暑地の停車場《ていしゃば》である。あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下《くだ》り列車に乗り、午後は四時二十分着の上《のぼ》り列車を降りるのを常としていた。なぜまた毎日汽車に乗ったかと云えば、――そんなことは何でも差支えない。しかし毎日汽車になど乗れば、一ダズンくらいの顔馴染《かおなじ》みはたちまちの内に出来てしまう。お嬢さんもその中《うち》の一人である。けれども午後には七草《ななくさ》から三月の二十何日かまで、一度も遇ったと云う記憶はない。午前もお嬢さんの乗る汽車は保吉には縁のない上り列車である。
 お嬢さんは十六か十七であろう。いつも銀鼠《ぎんねずみ》の洋服に銀鼠の帽子をかぶっている。背《せ》はむしろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に脚《あし》は、――やはり銀鼠の靴下《
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