。けれどもまた明日《あす》になれば、必ずお嬢さんと顔を合せる。お嬢さんはその時どうするであろう? 彼を不良少年と思っていれば、一瞥《いちべつ》を与えないのは当然である。しかし不良少年と思っていなければ、明日もまた今日のように彼のお時儀に答えるかも知れない。彼のお時儀に? 彼は――堀川保吉《ほりかわやすきち》はもう一度あのお嬢さんに恬然《てんぜん》とお時儀をする気であろうか? いや、お時儀をする気はない。けれども一度お時儀をした以上、何かの機会にお嬢さんも彼も会釈をし合うことはありそうである。もし会釈をし合うとすれば、……保吉はふとお嬢さんの眉《まゆ》の美しかったことを思い出した。
爾来《じらい》七八年を経過した今日、その時の海の静かさだけは妙に鮮《あざや》かに覚えている。保吉はこう云う海を前に、いつまでもただ茫然と火の消えたパイプを啣《くわ》えていた。もっとも彼の考えはお嬢さんの上にばかりあった訣《わけ》ではない。たとえば近々《きんきん》とりかかるはずの小説のことも思い浮かべた。その小説の主人公は革命的精神に燃え立った、ある英吉利《イギリス》語の教師である。※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]骨《こうこつ》の名の高い彼の頸《くび》はいかなる権威にも屈することを知らない。ただし前後にたった一度、ある顔馴染《かおなじ》みのお嬢さんへうっかりお時儀をしてしまったことがある。お嬢さんは背は低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に銀鼠の靴下の踵《かかと》の高い靴をはいた脚は――とにかく自然とお嬢さんのことを考え勝ちだったのは事実かも知れない。………
翌朝《よくあさ》の八時五分|前《まえ》である。保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩いていた。彼の心はお嬢さんと出会った時の期待に張りつめている。出会わずにすましたい気もしないではない。が、出会わずにすませるのは不本意のことも確かである。云わば彼の心もちは強敵との試合を目前に控えた拳闘家《けんとうか》の気組みと変りはない。しかしそれよりも忘れられないのはお嬢さんと顔を合せた途端《とたん》に、何か常識を超越した、莫迦莫迦《ばかばか》しいことをしはしないかと云う、妙に病的な不安である。昔、ジァン・リシュパンは通りがかりのサラア・ベルナアルへ傍若無人《ぼうじゃくぶじん》の接吻をした。日本人に生れた保吉は
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