お時儀
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)保吉《やすきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五六年|前《まえ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]
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保吉《やすきち》は三十になったばかりである。その上あらゆる売文業者のように、目まぐるしい生活を営んでいる。だから「明日《みょうにち》」は考えても「昨日《さくじつ》」は滅多《めった》に考えない。しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間《あいだ》にふと過去の一情景を鮮《あざや》かに思い浮べることがある。それは従来の経験によると、たいてい嗅覚《きゅうかく》の刺戟から聯想《れんそう》を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂《におい》ばかりである。たとえば汽車の煤煙の匂は何人《なんびと》も嗅《か》ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、――五六年|前《まえ》に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、煙突から迸《ほとばし》る火花のようにたちまちよみがえって来るのである。
このお嬢さんに遇《あ》ったのはある避暑地の停車場《ていしゃば》である。あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下《くだ》り列車に乗り、午後は四時二十分着の上《のぼ》り列車を降りるのを常としていた。なぜまた毎日汽車に乗ったかと云えば、――そんなことは何でも差支えない。しかし毎日汽車になど乗れば、一ダズンくらいの顔馴染《かおなじ》みはたちまちの内に出来てしまう。お嬢さんもその中《うち》の一人である。けれども午後には七草《ななくさ》から三月の二十何日かまで、一度も遇ったと云う記憶はない。午前もお嬢さんの乗る汽車は保吉には縁のない上り列車である。
お嬢さんは十六か十七であろう。いつも銀鼠《ぎんねずみ》の洋服に銀鼠の帽子をかぶっている。背《せ》はむしろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に脚《あし》は、――やはり銀鼠の靴下《
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