ある。なるほどぼんやり耳を貸していると、ああ云う風にも聞えないことはない。――そんなことを考えたのも覚えている。
 保吉は物憂《ものう》い三十分の後《のち》、やっとあの避暑地の停車場《ていしゃば》へ降りた。プラットフォオムには少し前に着いた下り列車も止っている。彼は人ごみに交《まじ》りながら、ふとその汽車を降りる人を眺めた。すると――意外にもお嬢さんだった。保吉は前にも書いたように、午後にはまだこのお嬢さんと一度も顔を合せたことはない。それが今不意に目の前へ、日の光りを透《す》かした雲のような、あるいは猫柳《ねこやなぎ》の花のような銀鼠《ぎんねずみ》の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀《じぎ》をしてしまった。
 お時儀をされたお嬢さんはびっくりしたのに相違あるまい。が、どう云う顔をしたか、生憎《あいにく》もう今では忘れている。いや、当時もそんなことは見定《みさだ》める余裕を持たなかったのであろう。彼は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照《ほて》り出すのを感じた。けれどもこれだけは覚えている。――お嬢さんも彼に会釈《えしゃく》をした! 
 やっと停車場の外へ出た彼は彼自身の愚《ぐ》に憤りを感じた。なぜまたお時儀などをしてしまったのであろう? あのお時儀は全然反射的である。ぴかりと稲妻《いなづま》の光る途端に瞬《またた》きをするのも同じことである。すると意志の自由にはならない。意思の自由にならない行為は責任を負わずとも好《よ》いはずである。けれどもお嬢さんは何と思ったであろう? なるほどお嬢さんも会釈をした。しかしあれは驚いた拍子《ひょうし》にやはり反射的にしたのかも知れない。今ごろはずいぶん保吉を不良少年と思っていそうである。一そ「しまった」と思った時に無躾《ぶしつけ》を詫《わ》びてしまえば好《よ》かった。そう云うことにも気づかなかったと云うのは………
 保吉は下宿へ帰らずに、人影の見えない砂浜《すなはま》へ行った。これは珍らしいことではない。彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭《いや》になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかしに来る。この日も曇天の海を見ながら、まずパイプへマッチの火を移した。今日《きょう》のことはもう仕方がない
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング