uはい。」
女の返事は羞《はづ》かしさうである。のみならず出したのも朝日ではない。二つとも箱の裏側に旭日旗《きよくじつき》を描いた三笠である。保吉は思はず煙草から女の顔へ目を移した。同時に又女の鼻の下に長い猫の髭《ひげ》を想像した。
「朝日を、――こりや朝日ぢやない。」
「あら、ほんたうに。――どうもすみません。」
猫――いや、女は赤い顔をした。この瞬間の感情の変化は正真正銘に娘じみてゐる。それも当世《たうせい》のお嬢さんではない。五六年来|迹《あと》を絶つた硯友社《けんいうしや》趣味の娘である。保吉はばら銭《せん》を探りながら、「たけくらべ」、乙鳥口《つばくろぐち》の風呂敷包み、燕子花《かきつばた》、両国、鏑木清方《かぶらぎきよかた》、――その外いろいろのものを思ひ出した。女は勿論この間も勘定台の下を覗きこんだなり、一生懸命に朝日を捜してゐる。
すると奥から出て来たのは例の眇《すがめ》の主人である。主人は三笠を一目見ると、大抵|容子《ようす》を察したらしい。けふも不相変《あひかはらず》苦り切つたまま、勘定台の下へ手を入れるが早いか、朝日を二つ保吉へ渡した。しかしその目にはかすかにもし
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