は勿論不思議ではない。しかしふと気がついて見ると、店の前には女が一人、両手に赤子を抱へたまま、多愛《たわい》もないことをしやべつてゐる。保吉は店から往来へさした、幅の広い電燈の光りに忽ちその若い母の誰であるかを発見した。
「あばばばばばば、ばあ!」
女は店の前を歩き歩き、面白さうに赤子をあやしてゐる。それが赤子を揺《ゆ》り上げる拍子に偶然保吉と目を合はした。保吉は咄嗟に女の目の逡巡する容子《ようす》を想像した。それから夜目《よめ》にも女の顔の赤くなる容子を想像した。しかし女は澄ましてゐる。目も静かに頬笑んでゐれば、顔も嬌羞《けうしう》などは浮べてゐない。のみならず意外な一瞬間の後、揺り上げた赤子へ目を落すと、人前も羞ぢずに繰り返した。
「あばばばばばば、ばあ!」
保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。度胸の好《い》い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来|如何《いか》なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々《づうづう》しい母を見出したのは、……
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