uはい。」
 女の返事は羞《はづ》かしさうである。のみならず出したのも朝日ではない。二つとも箱の裏側に旭日旗《きよくじつき》を描いた三笠である。保吉は思はず煙草から女の顔へ目を移した。同時に又女の鼻の下に長い猫の髭《ひげ》を想像した。
「朝日を、――こりや朝日ぢやない。」
「あら、ほんたうに。――どうもすみません。」
 猫――いや、女は赤い顔をした。この瞬間の感情の変化は正真正銘に娘じみてゐる。それも当世《たうせい》のお嬢さんではない。五六年来|迹《あと》を絶つた硯友社《けんいうしや》趣味の娘である。保吉はばら銭《せん》を探りながら、「たけくらべ」、乙鳥口《つばくろぐち》の風呂敷包み、燕子花《かきつばた》、両国、鏑木清方《かぶらぎきよかた》、――その外いろいろのものを思ひ出した。女は勿論この間も勘定台の下を覗きこんだなり、一生懸命に朝日を捜してゐる。
 すると奥から出て来たのは例の眇《すがめ》の主人である。主人は三笠を一目見ると、大抵|容子《ようす》を察したらしい。けふも不相変《あひかはらず》苦り切つたまま、勘定台の下へ手を入れるが早いか、朝日を二つ保吉へ渡した。しかしその目にはかすかにもしろ、頬笑《ほほゑ》みらしいものが動いてゐる。
「マツチは?」
 女の目も亦猫とすれば、喉《のど》を鳴らしさうに媚《こび》を帯びてゐる。主人は返事をする代りにちよいと唯|点頭《てんとう》した。女は咄嗟《とつさ》に(!)勘定台の上へ小型のマツチを一つ出した。それから――もう一度|羞《はづか》しさうに笑つた。
「どうもすみません。」
 すまないのは何も朝日を出さずに三笠を出したばかりではない。保吉は二人を見比べながら、彼自身もいつか微笑したのを感じた。
 女はその後いつ来て見ても、勘定台の後ろに坐つてゐる。尤も今では最初のやうに西洋髪などには結《ゆ》つてゐない。ちやんと赤い手絡《てがら》をかけた、大きい円髷《まるまげ》に変つてゐる。しかし客に対する態度は不相変妙にうひうひしい。応対はつかへる。品物は間違へる。おまけに時々は赤い顔をする。――全然お上《かみ》さんらしい面影《おもかげ》は見えない。保吉はだんだんこの女に或好意を感じ出した。と云つても恋愛に落ちた訣《わけ》ではない。唯|如何《いか》にも人慣れない所に気軽い懐しみを感じ出したのである。
 或残暑の厳《きび》しい午後、保吉は学校の帰りがけにこ
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング