黷ノ三角の波の上に帆前船《ほまへせん》を浮べた商標は額縁へ入れても好《い》い位である。彼はズボンのポケツトの底へちやんとそのマツチを落した後、得々《とくとく》とこの店を後ろにした。……
 保吉は爾来|半年《はんとし》ばかり、学校へ通ふ往復に度たびこの店へ買ひ物に寄つた。もう今では目をつぶつても、はつきりこの店を思ひ出すことが出来る。天井の梁《はり》からぶら下つたのは鎌倉のハムに違ひない。欄間《らんま》の色硝子《いろガラス》は漆喰《しつくひ》塗りの壁へ緑色の日の光を映してゐる。板張りの床に散らかつたのはコンデンスド・ミルクの広告であらう。正面の柱には時計の下に大きい日暦《ひごよみ》がかかつてゐる。その外《ほか》飾り窓の中の軍艦三笠も、金線サイダアのポスタアも、椅子も、電話も、自転車も、スコツトランドのウイスキイも、アメリカの乾《ほ》し葡萄《ぶだう》も、マニラの葉巻も、エヂプトの紙巻も、燻製《くんせい》の鰊《にしん》も、牛肉の大和煮《やまとに》も、殆ど見覚えのないものはない。殊に高い勘定台の後ろに仏頂面《ぶつちやうづら》を曝《さら》した主人は飽き飽きするほど見慣れてゐる。いや、見慣れてゐるばかりではない。彼は如何《いか》に咳《せき》をするか、如何に小僧に命令をするか、ココアを一罐買ふにしても、「Fry よりはこちらになさい。これはオランダの Droste です」などと、如何に客を悩ませるか、――主人の一挙一動さへ悉《ことごと》くとうに心得てゐる。心得てゐるのは悪いことではない。しかし退屈なことは事実である。保吉は時々この店へ来ると、妙に教師をしてゐるのも久しいものだなと考へたりした。(その癖前にも云つた通り、彼の教師の生活はまだ一年にもならなかつたのである!)
 けれども万法を支配する変化はやはりこの店にも起らずにはすまない。保吉は或初夏の朝、この店へ煙草を買ひにはひつた。店の中はふだんの通りである。水を撒《う》つた床の上にコンデンスド・ミルクの広告の散らかつてゐることも変りはない。が、あの眇《すがめ》の主人の代りに勘定台の後ろに坐つてゐるのは西洋髪に結《ゆ》つた女である。年はやつと十九位であらう。En face に見た顔は猫に似てゐる。日の光にずつと目を細めた、一筋もまじり毛のない白猫に似てゐる。保吉はおやと思ひながら、勘定台の前へ歩み寄つた。
「朝日を二つくれ給へ。」

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