。例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映画に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映写されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無数の春夏秋冬も、太陽も戦争も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――
又、さきに泉ちやんは女の大人猟坊は男の大人になると私は言つた。が、泉ちやんが男の大人に、猟坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の児を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。親子の関係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦関係、恋愛、亦々同じ。そのいづれもが腐縁の飾称みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。
父と母へ
さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子
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