なければならないものにさへ、われわれはうつかりして自分の方から金を出して買つてゐたのだ――といふことがすばらしい人気を呼んで本が一冊も売れなくなつたり、電車の行つたり来たりするのを見てゐた二人の子供の一人が「朝の一番最始[#「始」に「ママ」の注記]の電車はどつちから先に来るんだ」と言つたことに端を発して、朝に就ては世の学者誰一人として何も知らなかつたことを暴露してしまつたり、最低価額の下宿住ひの或る男が、そこの賄ひだけで死なずに十分生きてゆける筈なのに、時折りカフエーなどに出入してビールやトンカツを食ふということが、どういふわけのことであるのかといふことになつて、結局は熱心な学者に依つて生きたまゝ解剖されて脳と胃袋がアルコール漬の標本になつてしまつた等々々――のさうした状態もそのまゝずい[#「い」に「ママ」の注記]ぶん永くつゞくだけはつゞいたのです。
 そして、何時の間にか電車の数が住居者の人口より多くなつてゐたり、警官の数が警官でない者の五倍にもなつてゐるのにびつくりして、最善の方法としてそのまゝに二つのものゝ位置をとりかへたりするやうなことを幾度かくりかへした頃には、人達はてんでに疲れてしまつたのです。そして、あの大砲を打ちながら消息を絶つてしまつたりした博士達のゐた頃からでさへすでに数へきれないほどの時間が経過してしまつてゐるのに、まだこれから来る時間が無限だと聞かされた人達は何がなんだかまるでわからなくなりました。
 一方、何時の頃からか国の形も次第にわかり広さもわかつて彩色した立派な地図も出来、その国のほかにもまだたくさんの異つた国のあることを知ると、王様や大臣達は自分の国がさう広いやうには思はれなくなりましたが、その綺麗な地図の中に何一つ自分のものを持つてゐない人達はそれに何らの興味もないばかりでなく、地図の中の一里四方といふ面積が何を標準にしてきめた広さなのか更にけんとうもつかないのでありました。王様や大臣達は彼らが面積とは何であるか知らないのに驚きました。


後記

泉ちやんと猟坊へ

 元気ですか。元気でないなら私のまねをしてゐなくなつて欲しいやうな気がする。だが、お前達は元気でゐるのだらう。元気ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頬の両側にお前達の頬ぺたをくつつけてゐたつて同じことなのだ。お前達の一人々々があつて私があることにしかならないのだ。
 泉ちやんは女の大人になるだらうし、猟坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとつてかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教えてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが歩いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが歩いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちやんが、それから三年後を猟坊がといふ風に歩いてゐる。これは縦だ。お互の距離がずい[#「い」に「ママ」の注記]ぶん遠い。とても手などを握り合つては事実歩けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な仮説がかさなりあつて出来た悲劇だ。
 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの単位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得や[#「や」に「ママ」の注記]うではないか。それは、「日」といふものには少しも経過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映画に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映写されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無数の春夏秋冬も、太陽も戦争も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――
 又、さきに泉ちやんは女の大人猟坊は男の大人になると私は言つた。が、泉ちやんが男の大人に、猟坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の児を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。親子の関係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦関係、恋愛、亦々同じ。そのいづれもが腐縁の飾称みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。

父と母へ

 さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子
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