雨になる朝
尾形亀之助
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、注記の説明
(例)冷め[#「め」に「ママ」の注記]たい手で
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この集を過ぎ去りし頃の人々へおくる
序 二月・冬日
二月
子供が泣いてゐると思つたのが、眼がさめると鶏の声なのであつた。
とうに朝は過ぎて、しんとした太陽が青い空に出てゐた。少しばかりの風に檜葉がゆれてゐた。大きな猫が屋根のひさしを通つて行つた。
二度目に猫が通るとき私は寝ころんでゐた。
空気銃を持つた大人が垣のそとへ来て雀をうつたがあたらなかつた。
穴のあいた靴下をはいて、旗をもつて子供が外から帰つて来た。そして、部屋の中が暗いので私の顔を冷め[#「め」に「ママ」の注記]たい手でなでた。
冬日
久しぶりで髪をつんだ。昼の空は晴れて青かつた。
炭屋が炭をもつて来た。雀が鳴いてゐた。便通がありさうになつた。
暗くなりかけて電灯が何処からか部屋に来てついた。
宵の中からさかんに鶏が啼いてゐる。足が冷め[#「め」に「ママ」の注記]たい。風は夜になつて消えてしまつた、箪笥の上に置時計がのつてゐる。障子に穴があいてゐる。火鉢に炭をついで、その前に私は坐つてゐる。
[#地付き]千九百二十九年三月記
十一月の街
街が低くくぼんで夕陽が溜つてゐる
遠く西方に黒い富士山がある
花
街からの帰りに
花屋の店で私は花を買つてゐた
花屋は美しかつた
私は原の端を通つて手に赤い花を持つて家へ帰つた
雨になる朝
今朝は遠くまで曇つて
鶏と蟋蟀が鳴いてゐる
野砲隊のラツパと
鳥の鳴き声が空の同じところから聞えてくる
庭の隅の隣りの物干に女の着物がかゝつてゐる
坐つて見てゐる
青い空に白い雲が浮いてゐる
蝉が啼いてゐる
風が吹いてゐない
湯屋の屋根と煙突と蝶
葉のうすれた梅の木
あかくなつた畳
昼飯の佗しい匂ひ
豆腐屋を呼びとめたのはどこの家か
豆腐屋のラツパは黄色いか
生垣を出て行く若い女がある
落日
ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる
部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる
昼寝が夢を置いていつた
原には昼顔が咲いてゐる
原には斜に陽ざしが落ちる
森の中に
目白が鳴いてゐた
私は
そこらを歩いて帰つた
小さな庭
もはや夕暮れ近い頃である
一日中雨が降つてゐた
泣いてゐる松の木であつた
初夏一週間(恋愛後記)
つよい風が吹いて一面に空が曇つてゐる
私はこんな日の海の色を知つてゐる
歯の痛みがこめかみの上まで這ふやうに疼いてゐる
私に死を誘ふのは活動写真の波を切つて進んでゐる汽船である
夕暮のやうな色である
×
昨日は窓の下に紫陽花を植ゑ 一日晴れてゐた
原の端の路
夕陽がさして
空が低く降りてゐた
枯草の原つぱに子供の群がゐた
見てゐると――
その中に一人鬼がゐる
十二月の昼
飛行船が低い
湯屋の煙突は動かない
親と子
太鼓は空をゴム鞠にする
でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つてゐた子をおこしてしまつた
飴売は
「今日はよい天気」とふれてゐる
私は
「あの飴はにがい」と子供におしへた
太鼓をたゝかれて
私は立つてゐられないほど心がはずむのであつたが
眼をさました子供が可哀い[#「い」に「ママ」の注記]さうなので一緒に縁側に出て列らんだ
菊の枯れた庭に二月の空が光る
子供は私の袖につかまつてゐる
昼
太陽には魚のやうにまぶたがない
昼
昼の時計は明るい
夜 疲れてゐる晩春
啼いてゐる蛙に辞書のやうな重い本をのせや[#「や」に「ママ」の注記]う
遅い月の出には墨を塗つてしまふ[#「ふ」に「ママ」の注記]
そして
一晩中電灯をつけておかう
かなしめる五月
たんぽぽの夢に見とれてゐる
兵隊がラツパを吹いて通つた
兵隊もラツパもたんぽぽの花になつた
昼
床に顔をふせて眼をつむれば
いたづらに体が大きい
無聊な春
鶏が鳴いて昼になる
梅の実の青い昼である
何処からとなくうす陽がもれてゐる
×
食ひたりて私は昼飯の卓を離れた
日一日とはなんであるのか
どんなにうまく一日を暮し終へても
夜明けまで起きてゐても
パンと牛乳の朝飯で又一日やり通してゐる
彗星が出るといふので原まで出て行つてゐたら
「皆んなが空を見てゐるが何も落ちて来ない」と暗闇の中で言つてゐる男がゐた
その男と私と二人しか原にはゐなかつた
その男が帰つた後すぐ私も家へ入つた
郊外住居
街へ出て遅くなつた
帰り路 肉屋が万国旗をつるして路いつぱいに電灯をつけたまゝ
ひつそり寝静まつてゐた
私はその前を通つて全身を照らされた
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