霜
金田千鶴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)厭《あ》きられ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)下|撚《より》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)みより[#「みより」に丸傍点]
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『年寄には珍らしい』と、老婆の大食が笑ひ話に、母屋の方の人達の間で口にのぼるやうになった頃は最早老婆もこの家の人達に厭《あ》きられはじめてゐた。つまりそれ丈役立たぬ体となったのである。その事は老婆自身も無意識のうちに感じてゐて何彼につけて肩身狭さうにした。時折米を持ちに行く穀倉の戸を気兼さうにあけた。『容れ物そこへ置いてお出でな、後で持って行ってあげるで……』孫嫁に当る繁子がさう云って倉の中の仕事をしてゐる所へ行ったりすると、『そりゃまあおかたじけな!』と云って老婆は邪魔にならぬやうに、米櫃代用のブリキ罐を其処へ置いて出て来るのだった。それがひどく手持無沙汰の恰好に見えた。薪や粗朶《もや》を納屋から運び込むにも何かしら人目を憚かるやうにこそこそ運んだ。
老婆は火を焚くことが好きだった。
体が今程不自由でなかった頃は、裏の山へ出掛けて枯木を拾ったり、松葉を掻いたりして来るのを仕事にしてゐた。抱へ切れぬのはズルズルひきずって持って来た。
今ではもうその元気はなかった。薪にしても粗朶にしても納屋から運んで来るのは気兼だった。然し老婆は焚きものが切れると何よりも心細くて堪らなかった。隠居所の土間に焚きものを絶やさぬやうにして置きたかった。
それで隙さへあれば少しづつでも運び込んだ。そして炉端に坐ってどんどん大きな火を焚いた。小さな鉄瓶一つ掛けた丈で大きな火を焚き放題にするので、隠居所の中はどこもかも真黒に煤び切って、天井からは白い焚埃りが降るほど舞ひ落ちて来る中にいつ迄も坐り込んでゐるのが常だった。それで時々焚き放しにしておいて外へ出て行く癖だった。
『なんたら大きい火を焚いて!』
通りがかりの主婦のかめよは驚いて隠居所を覗いた。『どうしてこんなに火を焚きたいらか?』かめよは独り言を云って、二三本のまきを灰にこすりつけて火をとめた。
老婆の火を焚く癖も近頃は殆んど病的に募って行くやうだった。
『おばあさま、お茶がよう煮えとる!』
かめよは老婆が抱へるやうにして入って来た大きな榾に素早く目をとめた。
『そいつはおばあさま、新にさう云って割って貰はにゃそのまんまぢゃ大き過ぎるで……』
『なに、大きいやつを一つくべとくと火持ちがいいで……』
老婆は頑固さうな口調で云った。
『火持ちはいいが、なんしろ危ないで……よっぽど気を付けんと火のやうな怖《お》かないものはない……』
老婆は素直に頷づいた。
前に幾度か火の粗相があったので、火といふとかめよもくどかった。
炉端へ置いたものへ火が移ってブスブスと燃えはじめ危ふい所をかめよがふと見付けたのも遂最近の事だった。老婆は只ウロウロとしてゐた。ひとりで始末をつけようとしてゐるのだった。それが危ぶないので大事になる因《もと》だと、かめよもその時は気が立ってゐたのでづけづけとしたことを云った。
『そんなに云はんたってもうぢき死ぬわい!』
老婆は悲しい絶望的な気持から思はずそんな言葉を云って了った。
『おばあさまったらそんなをかしなことを云って……なんにも俺は無理を云ふつもりぢゃない。おばあさまの為には出来る丈のことをするつもりでをるんぢゃあないかな!」
かめよの荒い言葉にはしかし真情が籠ってゐた。老婆はそれを聞くと叱られた子供のやうに泣き上げたくなった。そしてポツリと一すぢ涙が頬の皺を醜く流れた。
何と云ってもこの家で老婆の頼りにする人は嫁のかめよだった。この家丈ではない、老婆にはどこにも誰一人も他に頼りにする人はなかった。
もう五、六年仕事らしい仕事も出来ず気儘にブラブラしてゐて、その上この冬の流行性感冒を誰よりも重く病んだ老婆は、今度こそむづかしいと云はれて風邪はお互ひだからと云ふ事にしてある近処の者も代る代る義理に集る程だったが、看病が行届いたのか、生き強いと云ふのか、腰も立たぬ程の大病みも暖かくなるに連れて又持ち直し、もう一度起き上る身になった。しかし流石に八十幾つといふ年が年なのでめっきり弱り込んで了った。
老婆がこの家へ来たのは六十を越えてからだった。六十の坂を越えてから他人の家へ後妻として入る迄には、老婆も色々な世間を渡って云ひ尽せない苦労の中も通って来た身だった。初めこの家へ老婆を世話したのは町の筆屋の勝野老人だった。
『根は愚かだけれど極くの正直者で……』
勝野老人は不仕合せな老婆の身の上を語った。みより[#「みより」に丸傍点]のないと云ふのが却ってこちらには乗気だった。
『山の中の御大家だ!』老婆は勝野老人からその事を聞かされた。
『おめえもかうやって居ってどうするつもりだ。誰に死水取って貰ふ人もいないのぢゃ仕様あるまい……』
それは人に云はれる迄もなく老婆自身行末の事を考へれば心細い限りだった。行末どころではない。今日今の生活が凌ぎかねてゐるのだった。老婆はその頃何人目かの亭主と別れて、裏町の勝野老人の長屋に独りで暮してゐた。人の家へ雇はれたり元結の下|撚《より》を内職にしたりしてやっとその日を過してゐた。
幾人亭主を持ったと云ふのも、もともと初めの亭主と死に別れたのが運が悪かったので、その最初の亭主とは一番永く暮して、おとしといふ娘があった。おとしが廿歳を越えてからふとした病気で呆気なく死んで了った。それから老婆には転々とした生活が始まった。生れた家も疾うになくなって、身内の者もちりぢりとなり無いも同然になって了った。それでも若いうちは元気だった。製糸工場へ入って大枠の工女としての長い生活もして見た。恐ろしい山師の女房となって旅を流れ歩いたりした事もあった。どん底の生活に近いと云ってもいいやうな生活もあった。
そして働き盛りの時代がいつか過ぎてゐた――。
老婆は老後になって思はぬ手引で山の中の見知らぬ家庭の中に入って来た。
隠居と云ふ人は偏屈人で気むづかしい顔をしている老人だった。一日中でも黙ってゐるやうな性だった。それでゐて女には弱かった。若い時といふのでなく、先の女房がまだ長く病んでゐる頃に女の不始末を起した事が有った。後妻の話のでたのもそんなところから若い者の計らひだった。
然し老婆が来た頃には隠居も持前の偏屈が一層募ってゐた。新しいつれあひに対してもひどくぎこちなく冷淡のやうだった。
一度老夫婦は山の湯場へ一晩泊りで湯治に出掛けて行った、その帰りはひどい風になって、老婆は地理は知らぬし山道は慣れぬし、まごまごしてゐると隠居はずんずん先へ行って了ふので泣き度くなり乍ら後についた。
『おぢいさまはわしを山の中へ置き去りにして……』老婆はその折の隠居の姿にふいと縁もゆかりもない他人を見いだした。
慣れない生活の中にゐて老婆は今更取りつきがたい思ひをした。
『隠居のお茶飲み相手さへして居ればいい』
と勝野老人は仲人口をきいたが、来て見ればさういう訳にもゆかなかった。然し老婆は性来働く事が好きだった。幼い時から貧乏暮しには慣れてゐた。見るからに節太い大きな手は過去の働きつづけた生活を語って見せた。
老婆はじっとしてゐる事が苦痛なたち[#「たち」に丸傍点]だった。お針を習ふ折がなくて過ぎたが糸取りには自信があった。作場仕事も好きだった。若い者に交ってどんどん働いた。大家族でいつも忙しい家だった。老婆は憎まれ口もよく利いたが快活で話し好きだった。
『町育ちのひとのやうでもない、下品な話ばかりして!』と眉をひそめられることもあった。
『おばあさまのお菜洗ひは砂が一寸も落ちんでほんとにいやだ……』
若い孫嫁の繁子は何彼につれて老婆を煙たがった。老婆は老婆で若い者達のにぶい仕事振りが気に入らなかった。
『奉公人使っとる家のお上さんなんちふものは起きて出るにも咳払ひしながら起きる位の気転が利かなくては……』と一寸云ふにもそんな調子だった。それ程萬事に気喧しい性分だった。老婆は腹が立ってムシャクシャすると尚更ぐいぐい働いて見せた。
『吉田でも全くいい年寄を貰ひ当てた!』
近処の者はよくさう噂した。
隠居は間もなく卒中でバッタリと死んで行った。今更何の問題もなく老婆はその儘隠居所に居付いた。かめよも先の姑に仕へた時と違って老婆には気楽に物の云へる立場に立ってゐた。
勝野老人は冬になると毎年きまって村を廻って来た。脚絆に草鞋穿きといふ古風ないでたちで、筆や墨の入ったつづらを天|秤《びん》棒で担いでやって来た。商売が上品な商売丈あってどこそこ品位の有る老人だった。行きどまりの吉田家へ来るとゆっくり休んで行くのが定例だった。
『おいそさん』勝野老人は老婆の名をさう呼んで隠居所へもやって来た。
『おめえはいい家へ世話になった!』老人はそんな風にポツリと云ふ癖だった。
『此処のおっ母は利口者だかも仲々話が解る……』そんな事もいった。[#「。」は底本では「、」]
『俺れがあんまり馬鹿過ぎるで……』老婆は呟くやうに云った。
老婆は勝野老人に逢って、町の方の話を聞くのが何よりの楽しみだった。勝野老人は来る度に町の方の様々な話題をもたらせた。
『俺れの処もまあ養子がようやって呉れる!』
勝野老人は子供がないので養子を貰ってゐた。遣り手だといふ養子の話を始めるときりがないやうに見えた。
老婆は氷く住み慣れた裏町の方の人達の色々な変遷を聞いた。倒産してちりぢりになった老舗の話やら、中風で寝込んだ話友達の身の上やら驚くやうな話が多かった。
誰の上を聞いて見ても芳《かん》ばしい話はないやうだった。
『おめえは未運がいいといふもんだ!』
勝野老人は感慨深さうに云った。
さう云はれて見れば、老婆は(これが仕合せなのかも知れない)と自身の上を思って見るのだった。
ある年の秋の祭の事だった。ふとすすめられて老婆は孫娘のみつ子を連れ祭場へ出掛けて行った。祭と云っても小さな氏神の拝殿に近所の者が集って酒を飲むだけのものだった。『吉田の御隠居様お一つ?』さう云って盃をさす者もあった。老婆はすすめられて盃を幾つか重ねた。そこではてんでに重箱をひろげてさかなを交換し合って食べた。こんな事は幾年にもないことだった。
老婆はすっかりいい機嫌になった。やがて唄をはじめる者もあった。老婆もすすめられるままに目をつぶって唄って見た。細いいい声が出た。一座はにはかに陽気づいて来た。
それこそ調子がよければ踊りの一つも踊って見たいやうな燥しゃいだ気持ち……老婆は久々で昔の自由な時代のことを思ひだしてゐた。それは殆んど忘れてゐた世界だった。みつ子が心配な顔をして若々しく酔の廻った老婆の顔をみつめてゐた。
『みっちゃん、家へかへってだまっとってお呉んなよ!』
老婆は帰途にふとみつ子に向ってさう云った。
老婆には過ぎ去った昔が訳もなく懐しかった。何も彼もごっちゃになって思ひ出された。そして『おとし、おとし』と娘の名が口癖に出て来た。おとしと父親と二人で暮した時代の事が何彼につれて頭を去らなかった。楽しかった事はみなその時代のこととして思ひだされた。蔭ではよくそのことについて笑ひ合った。『娘もいつまでも娘で居りゃせんに!』と云った。
だが老婆にはどう思っても事実年齢から云へば五十にも六十にもなってゐる筈の娘を考へることは出来なかった。若くて頼もしい娘の面影がいつも目の底から消えなかった。
老婆は信心を持たなかった。さういふ境遇には育って来なかった。だから死後の事を考へはしなった。ただ死ぬ時を案じた。ころりと死に度いといふ事丈を願った。誰か近処の年寄が楽往生したことを聞くと老婆はしんから羨しがった。
『おばあさまいつまでもおたっしゃで……』
近処の者は近頃ひどく老い込んだ様子で曽孫の子守をしてゐる老婆を見るとさう挨拶した。
「達者どころではない! 俺ももうお暇の出る時分ずらよ!」
『おひまなんか
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