くやうな話が多かった。
 誰の上を聞いて見ても芳《かん》ばしい話はないやうだった。
『おめえは未運がいいといふもんだ!』
 勝野老人は感慨深さうに云った。
 さう云はれて見れば、老婆は(これが仕合せなのかも知れない)と自身の上を思って見るのだった。

 ある年の秋の祭の事だった。ふとすすめられて老婆は孫娘のみつ子を連れ祭場へ出掛けて行った。祭と云っても小さな氏神の拝殿に近所の者が集って酒を飲むだけのものだった。『吉田の御隠居様お一つ?』さう云って盃をさす者もあった。老婆はすすめられて盃を幾つか重ねた。そこではてんでに重箱をひろげてさかなを交換し合って食べた。こんな事は幾年にもないことだった。
 老婆はすっかりいい機嫌になった。やがて唄をはじめる者もあった。老婆もすすめられるままに目をつぶって唄って見た。細いいい声が出た。一座はにはかに陽気づいて来た。
 それこそ調子がよければ踊りの一つも踊って見たいやうな燥しゃいだ気持ち……老婆は久々で昔の自由な時代のことを思ひだしてゐた。それは殆んど忘れてゐた世界だった。みつ子が心配な顔をして若々しく酔の廻った老婆の顔をみつめてゐた。
『みっちゃん、家へかへってだまっとってお呉んなよ!』
 老婆は帰途にふとみつ子に向ってさう云った。

 老婆には過ぎ去った昔が訳もなく懐しかった。何も彼もごっちゃになって思ひ出された。そして『おとし、おとし』と娘の名が口癖に出て来た。おとしと父親と二人で暮した時代の事が何彼につれて頭を去らなかった。楽しかった事はみなその時代のこととして思ひだされた。蔭ではよくそのことについて笑ひ合った。『娘もいつまでも娘で居りゃせんに!』と云った。
 だが老婆にはどう思っても事実年齢から云へば五十にも六十にもなってゐる筈の娘を考へることは出来なかった。若くて頼もしい娘の面影がいつも目の底から消えなかった。
 老婆は信心を持たなかった。さういふ境遇には育って来なかった。だから死後の事を考へはしなった。ただ死ぬ時を案じた。ころりと死に度いといふ事丈を願った。誰か近処の年寄が楽往生したことを聞くと老婆はしんから羨しがった。
『おばあさまいつまでもおたっしゃで……』
 近処の者は近頃ひどく老い込んだ様子で曽孫の子守をしてゐる老婆を見るとさう挨拶した。
「達者どころではない! 俺ももうお暇の出る時分ずらよ!」
『おひまなんかお出しるものかな、ありがたいおばあさまだに!』
『なに、なに俺もまあおっ母さんがいい人だでお世話になって居れたんだが……』
 老婆はそんな風に云って見ずにゐられなかった。さう口に出して云って見ると、今更に頼りない境遇がはっきりして来るやうだった。そして相手になって呉れる人に何かしら愚痴を聞いて貰ひたい心にならずにゐられなかった。誰もがいつも当り障りのない言葉をかけて呉れるのが物足りなかった。どんな他愛ない事でも口へ出して云って見ると胸がすっとするものだった。肚にある事を残らず云ったり云はれたりして見なければどうにも胸が納まらぬのだった。老婆は只愚痴を云って胸を納めて見るより他仕方なかった。
『俺ももういつ死んでもいいんだが……それでも下手な死に様をしてごらんな、それこそ家の名にかかわることだで……』
 老婆は、近処の者には家の人達には云へないやうな事を云って見たりした。
 その癖世話を焼きたい性分で、母屋へ行って見ても、畠へ出て見ても捨てて置けない事許りのやうな気がした。
『みんな勝手にするがいい……どうならうと俺はもう構はん……』老婆は思ふやうにならない癇癪を隠居所へ戻って来てはせめて独り言に洩らすのだった。
 孫娘のみつ子も疾《と》うに町の方へ嫁に行ってゐた。みつ子の嫁入の時は、『おばあさまのお蔭でこんなに着物が沢山出来た!』と手取りの絹を胴裏にまでつけた着物を見せられて悦ばれたものだったが、老婆も次第に手が硬くなって好きな糸取りも出来なくなった。
 老婆は引き続いて生れる曽孫の子守を次々に引受けた。子供が重くなって手に余る頃には又次の赤ん坊が生れてゐた。
 老婆の心では出来る丈働くつもりでももう思ふ様に体が動かなかったし、ためになるつもりでやる事が却って反対の結果を生んだ。
 蚕の手伝ひは最も好きな仕事で、『おばあさま繭掻きとなるとまるで夢中で御飯食べる事も忘れて了ふ……』とよくかめよが笑ったりしたものだが、今ではもう『巣掻かん蚕迄拾ふ』とか『上繭も中繭も区別が出来ん』とか、蔭では苦情許り云はれて有難迷惑にされるやうになった。
 老婆はある時末の男の子を背負ったまま、近くの溝川へ落ち込んで、子供も自分も頭を血だらけにして帰って来た。
 左半分が兎角不自由勝ちだった。
 その時以来子守仕事も老婆の役目ではなくなった。その上老婆の頭の傷ははかばかしく癒らなかった。
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