単純な化膿ではないといふ事だった。身にひそんでゐた病気が有るのだった。老婆は目に見えて衰へが来てゐた。

『勝野さん、俺れもこんな者になって了って全く悲しいよ!』
 老婆は利かなくなった左の手を出して見せた。
『ふんとに手は利かんし足は利かんし俺れも生き過ぎてしまったよ!』
 勝野老人はあたり前だといふ顔をした。
『おまいはなんにも云ふことはないよ……楽隠居でなんに不足がある。有難く思ってさへ居ればそれでいいんだな!』
 さういふ勝野老人はひどく屈託を持ってゐる顔付きだった。
『もうあかん、荷が苦になるやうになったらもうあかん……』
 勝野老人は吉田迄来ると思はず溜息をついて云った。老人もめっきり年取ってどこか影のうすいやうなとぼとぼした歩きつきだった。
『勝野さんもなんだかながいことはないやうだ……』
 かめよは夫にさう云って、次の間に寝てゐる老人の不規則な寝息を聴いた。
『うん、老爺も養子にゃ逃げられるし、それに第一商売がもう行きどまりだでえらからうよ!』
 かめよ夫婦は暫くそんな話をしてゐた。
 勝野老人の身辺にも目に見えて変遷が有った。老人があれ程信頼してゐた養子にも裏切られた。養子は嫁を貰ってから間なく老人の手許を飛び出して独立で洋食屋を経営しはじめてゐて、老人夫婦とは縁を切った形だった。
 老人の商売も時世に取り残された。村から村を廻って歩いてもいくらの収入にもならなかった。今ではもう村々の得意先で永年の誼みに泊めて貰って口稼するに過ぎない状態だった。
 勝野老人は今度吉田へ来るにつけても、どうしても云ひ出しにくい事を云はねばならない切破詰った事情を持ってゐるのだった。
 それをどう切りだしていいか、縁故と云へば何もなかった。単に老婆を世話したといふ位のものだった。それ位の理由で、(気難かしい当家《ここ》の大将)が早速頼みを容れて判を押して呉れるかどうか……。
 勝野老人はどう切り出したものかといふ事を考へあぐんでゐた。そして心が慰まなかった。
『俺ももう一度おとしの墓参りに行って来たいと思ったんだが……』
 老婆はそれも口に出して云って見るに過ぎない調子で云った。
 老いた二人は別に話す事もみつからぬといふ風で途切れ勝ちに話し合ってゐた。
 老婆は次第に独りゐる時を好むやうになった。母屋の方へもたまにしか出て行かなかった。たまに行って見ても子供達も何となくよそよそしい眼をするやうだった。『年寄りはきたない』さういふ冷たい眼があるやうだった。老婆は母屋へお茶に招ばれて行って、賑やかな茶飯時の一座の中でふいと水臭いものを感じた。子供が大勢でみんなてんでに笑ったり泣いたり罵ったりするにつけても、そこに親子兄妹の肉親につながるもの同士が持つ親しい解け合った雰囲気があるやうに見えた。その中にゐて只自分丈がその雰囲気から仲間外れになってゐるやうなよわい感じ……老婆はそれを屡々感じなければならなかった。
 それは只気持の上のことなのだが――。
 稀にみつ子が町から帰ると『隠居のおばあさまに』さう云って老婆の所へも何かしら手土産を持って来た。老婆はそれが何より嬉しかった。そしてかめよから貰って持ってゐる小遣ひを無理にみつ子に手渡してきかなかった。『おばあさまは私をまだ子供扱ひで……』みつ子は母親のかめよと顔を見合はせて笑った。
 さういふ母親はたまに出逢って、話しても話しても尽きないと云ふやうに睦び合って、如何にも楽しさうに見えた、かめよは何彼につけてみつ子の噂をたのしんだ。
 老婆はどっちを向いても独りぼっちだった。肉身としての深い愛情をそそぐものも、そそいで呉れるものもない寂寥を只身一つに背負ってゐるやうに隠居所の炉端にひとりぼんやり坐ってゐる時が多かった。
 そして思ふやうに動けぬ自分の体を自分で持て余すやうな焦燥もいつか年と共に消えて了ってゐた。
 若い時から人一倍壮健で、たくましい胃を持ってゐる老婆は食慾だけは年取ってもさかんだった。只食べて眠る丈の慰安がそこにあった。そしてひとりで煮炊をしてゐるとその方がずっと気楽でたまに『本家で食べておいでな』と云はれても母屋では落付いて食べる気にならないので、いつも断って帰って来た。
 ある晩だった。今夜は御馳走が出来るから食べずに待つやうにと云はれたので、老婆は夕方から待ち切った。炉端につくねんと坐って火を焚き乍ら足音の聞える度に耳を澄ました。
 随分待ったが何の沙汰もない。待ちあぐんで炬燵に戻って待って見た。それでも持って来る気配がない。老婆は次第に空腹が増すに連れてヂリヂリして来た。
 忘れてゐるのだらうか? さう思ふとなんとも云へぬ忌々しい気持になった。
 行って見ようか? さう思ふ一方で、構ふことはない、棄てておいてやれといふいっそ自棄的な気持ちが湧いてみじめな自分をそ
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