のままにして置く気にもなった。なにも彼も悲しく呪はしくなった。そして今迄にもこんな思ひに度々出逢ったやうな気がして来た。
 大家内の母屋では子供に紛れてつい忘れてゐた。
 かめよも老婆の為にはいつも特別気を配ってゐるのだが今夜に限って何か紛れてゐて遂それなりになった。もう後片付も済まして皆奥へ引込んだ時だった。かめよがふと『おばあさまには上げつらなァ?』と云ったので気がついて(しまった事をした)といふので繁子は大急ぎでお萩の鉢を運んで来た。
『えらい遅くなって申訳なかったなむ』繁子は戸間口からさう声を掛けて入ったが老婆は炬燵の中に体を埋めるやうにしてゐた。『ナァに』と口軽く云ふつもりで声が震へさうで何も云へなかった。
 繁子は困った顔をし乍ら出て行った。
 すぐ後からわざわざかめよがやって来た。
 鉢はまだ上り端に置かれてあった。
『おばあさま、えらいわるいことをしたなむ、サア早く食べておくんな!』
『ナァに』老婆はよわよわしく微笑をしようとした。
『本家の方もゴタゴタしてをるでつい忘れてしまって……そいだがおばあさまも催促に来てお呉れりゃいいぢゃないかな? なんにもわる気のあることぢゃないに……一寸声を掛けと呉れりゃそれで済むことぢゃないかな!』
 かめよにさう云はれると、嵐の荒れ狂ったやうな胸のうちがすこしをさまって来るやうな気になった。
 老婆はもの憂く立ち上って炉端へ膳を運んだ。

 もう秋も末だった。
 きびしい霜が白々と降りた朝だった。
 一晩のうちに外の面のものが黒く素枯れて行く恐ろしい寒気は家の内へも侵入して来て、ひしひしと老婆の五体に滲み通った。
 その朝から老婆は腰が立てなくなり、部屋のうちを這い廻ってゐた。何気なく水を運んで来た繁子は老婆の変り果てた姿にびっくりさせられた。老婆はもうすっかり痴呆状態になってゐて人の声さへ耳に入らなかった。
 かめよはその頃、盲腸炎を病んで町の病院で手術後の危険な時期を呻吟してゐた。
『どうもおばあには弱ったよ、臀の始末が自分で出来ん癖に、自分で始末する気でウロウロ這ひだしたりそこら汚したりして……』
 夫の話を聞いて、かめよはなんたらことだかと思った。(おばあさまは俺が引受けたつもりだったに)さう思ふと自分の体が歯掻ゆかった。
 さう思ふかめよも既に六十を越えた老体で病後の経過がはかばかしくは行かなかった。
 かめよは年の暮になって漸くの思ひで退院して来た。老婆はかめよを見るとそれでも『おっ母さん』と呼んで見たがもう直ぐ記憶が錯雑してとりとめのない事を云ひ続けた。
 手伝ひのために隣家の娘を頼み込んであったが老婆の世話は赤ん坊よりも始末が悪かった。正月も過ぎる頃には誰の眼にも遣り切れない当惑の色が浮んでゐた。
 老婆はある朝ふっと正気に返った。
 そして汚れものの始末も他人に任せている自分自身のみじめな姿をはっきり見た。
『だから俺は娘が欲しいって思ったんだ……』
 老婆はそれをはっきりと口へだして云って見た。突然にさう云ったので傍にゐた隣家の娘はけげん相な顔をした。そして薄気味わるさうにした。
 老婆はまじまじと一つところをみつめた。
 もう身をもがく丈の力もなかった。
 やがて老婆は再び昏迷に落ちて行った。
 絶え間のない譫《うは》言がつづけられた。ひっきりなしに人の名を呼びつづけた。それが誰の名を呼ぶとも聞えず丁度赤児の泣声のやうにきこえた。
そしてだんだんに声が細り消えるかのやうに息を引取った――。
 二月半ばの大雪の晴れた日に、老婆の亡骸は柩に納められて、吉田家の墓地の片隅に埋められた。
『各務いそ之墓』白木の墓標にはさう録《しる》されてあった。行年八十九歳と横には書かれてあった。
 葬式に集った近処の人達は、初めて知った老婆の姓を珍らし顔に眺めた。
 老婆がはじめに年齢を三つ程隠して来たといふ事も今度の御大典の時町の役場からの照会で解ったといふ話もはじめて出た。
 年には不足がないと云ふ訳で、鹿爪らしいお悔みを云ふ者もなかった。みんなてんでに思ひ思ひの事を口に出して話し合った。
 他人許りののんきさがそこにあった。
『皆様のお蔭で賑やかなお葬式が出来まして!』
 かめよはさう挨拶をくり返した。
『仕合せなおばあさまだった!』
 女房達はさう云った。それは決してお世辞にいふのではなかった。
 貧乏に追はれて暮す者から見れば、食べるものにも着るものにも不自由なく長命できればそれを仕合せと思ふより他思ひやうがなかった。そして『長生した人のは縁起がいい!』と云って、老婆の着古したやうなものをよろこんで貰って行った。

 かめよは隠居所の跡片付をあらかた終へた。がっかりしたやうな安心の気持ちだった。
 勝手道具を整理したり、古い行李や箪笥の中を片つけた。麻の単衣とか黒繻
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