』老婆は勝野老人からその事を聞かされた。
『おめえもかうやって居ってどうするつもりだ。誰に死水取って貰ふ人もいないのぢゃ仕様あるまい……』
それは人に云はれる迄もなく老婆自身行末の事を考へれば心細い限りだった。行末どころではない。今日今の生活が凌ぎかねてゐるのだった。老婆はその頃何人目かの亭主と別れて、裏町の勝野老人の長屋に独りで暮してゐた。人の家へ雇はれたり元結の下|撚《より》を内職にしたりしてやっとその日を過してゐた。
幾人亭主を持ったと云ふのも、もともと初めの亭主と死に別れたのが運が悪かったので、その最初の亭主とは一番永く暮して、おとしといふ娘があった。おとしが廿歳を越えてからふとした病気で呆気なく死んで了った。それから老婆には転々とした生活が始まった。生れた家も疾うになくなって、身内の者もちりぢりとなり無いも同然になって了った。それでも若いうちは元気だった。製糸工場へ入って大枠の工女としての長い生活もして見た。恐ろしい山師の女房となって旅を流れ歩いたりした事もあった。どん底の生活に近いと云ってもいいやうな生活もあった。
そして働き盛りの時代がいつか過ぎてゐた――。
老婆は老後になって思はぬ手引で山の中の見知らぬ家庭の中に入って来た。
隠居と云ふ人は偏屈人で気むづかしい顔をしている老人だった。一日中でも黙ってゐるやうな性だった。それでゐて女には弱かった。若い時といふのでなく、先の女房がまだ長く病んでゐる頃に女の不始末を起した事が有った。後妻の話のでたのもそんなところから若い者の計らひだった。
然し老婆が来た頃には隠居も持前の偏屈が一層募ってゐた。新しいつれあひに対してもひどくぎこちなく冷淡のやうだった。
一度老夫婦は山の湯場へ一晩泊りで湯治に出掛けて行った、その帰りはひどい風になって、老婆は地理は知らぬし山道は慣れぬし、まごまごしてゐると隠居はずんずん先へ行って了ふので泣き度くなり乍ら後についた。
『おぢいさまはわしを山の中へ置き去りにして……』老婆はその折の隠居の姿にふいと縁もゆかりもない他人を見いだした。
慣れない生活の中にゐて老婆は今更取りつきがたい思ひをした。
『隠居のお茶飲み相手さへして居ればいい』
と勝野老人は仲人口をきいたが、来て見ればさういう訳にもゆかなかった。然し老婆は性来働く事が好きだった。幼い時から貧乏暮しには慣れてゐた。見るからに節太い大きな手は過去の働きつづけた生活を語って見せた。
老婆はじっとしてゐる事が苦痛なたち[#「たち」に丸傍点]だった。お針を習ふ折がなくて過ぎたが糸取りには自信があった。作場仕事も好きだった。若い者に交ってどんどん働いた。大家族でいつも忙しい家だった。老婆は憎まれ口もよく利いたが快活で話し好きだった。
『町育ちのひとのやうでもない、下品な話ばかりして!』と眉をひそめられることもあった。
『おばあさまのお菜洗ひは砂が一寸も落ちんでほんとにいやだ……』
若い孫嫁の繁子は何彼につれて老婆を煙たがった。老婆は老婆で若い者達のにぶい仕事振りが気に入らなかった。
『奉公人使っとる家のお上さんなんちふものは起きて出るにも咳払ひしながら起きる位の気転が利かなくては……』と一寸云ふにもそんな調子だった。それ程萬事に気喧しい性分だった。老婆は腹が立ってムシャクシャすると尚更ぐいぐい働いて見せた。
『吉田でも全くいい年寄を貰ひ当てた!』
近処の者はよくさう噂した。
隠居は間もなく卒中でバッタリと死んで行った。今更何の問題もなく老婆はその儘隠居所に居付いた。かめよも先の姑に仕へた時と違って老婆には気楽に物の云へる立場に立ってゐた。
勝野老人は冬になると毎年きまって村を廻って来た。脚絆に草鞋穿きといふ古風ないでたちで、筆や墨の入ったつづらを天|秤《びん》棒で担いでやって来た。商売が上品な商売丈あってどこそこ品位の有る老人だった。行きどまりの吉田家へ来るとゆっくり休んで行くのが定例だった。
『おいそさん』勝野老人は老婆の名をさう呼んで隠居所へもやって来た。
『おめえはいい家へ世話になった!』老人はそんな風にポツリと云ふ癖だった。
『此処のおっ母は利口者だかも仲々話が解る……』そんな事もいった。[#「。」は底本では「、」]
『俺れがあんまり馬鹿過ぎるで……』老婆は呟くやうに云った。
老婆は勝野老人に逢って、町の方の話を聞くのが何よりの楽しみだった。勝野老人は来る度に町の方の様々な話題をもたらせた。
『俺れの処もまあ養子がようやって呉れる!』
勝野老人は子供がないので養子を貰ってゐた。遣り手だといふ養子の話を始めるときりがないやうに見えた。
老婆は氷く住み慣れた裏町の方の人達の色々な変遷を聞いた。倒産してちりぢりになった老舗の話やら、中風で寝込んだ話友達の身の上やら驚
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