。坐らせてもぢきに立って壁に向ってゐる。物をさっぱり云はなくなった。終ひには両脚がむくみ上って了った。御飯を無理にすすめると「そんねに食はでもいい……」と遠慮ばかりしてゐる。そんな風になる少し前から越後者の伊佐といふ若い男が入り込んでゐたが、正直者でおとなしい性質だったから、お絹の世話は親切に面倒見てゐた。
お絹は或る晩首を吊って死んだ。伊佐達が一寸うっかりしてゐる間にふらふらと家を脱け家の横の柿の木で縊れた。おそろしく柿の実った年だったが――。古い家とその屋敷地と畑一枚とそして大きな柿の木二本が遺された。それは当然お絹が我が子として育て上げた清司が相続するものとお絹自身もきめてゐたのだが、お絹が死んで見ると、伊佐の所有に帰した。これには清司も当の伊佐も驚いた。清司はおたつの私生児でその手続きがしてなかったからだった。清司は間もなく十九年住み慣れた土地を追はれるやうにして村を出て行った。
さう挙げて行けばきりがない。
中屋のおちよ後家の名も久しいものだ。土方の平吾の処も早く女房に死なれてゐる。娘のやす子は製糸工場から孕んで来て女の子を産んで、その儘どこへも嫁入らずに父と子と孫の三人ぐらしだ。手に余る蚕を飼ったり稼ぎに出たりして、堅く切り詰めて暮してゐる。手っ取り早い事を云えばこの部落の中で無事で普通の暮しを立ててゐる者が幾軒在ると云へるだらうか。窪のおふじも今年になってから僅か許りの前畑と田を手放さねばならぬ破目に落ちた。其処へ吉本屋の次男が別家して一寸動かせば谷へ落ち込むやうな狭い地面へ割り込んだ。「わしァどんなにしてでも追ひ出されるまぢゃ此処を出て行く気はない……」おふじは辛い顔をした。そして製糸工場の公休日には飛んで帰って子供の世話をして行った。
永い間にはこの部落の中にも様々な変遷が有った。持ち切れなくて出て行く者も多かったが増えることも増えたものだ。勝太や新蔵の子供の頃には僅か十四軒だった森田部落も今では四十軒の余になってゐる。
さうして猫の額程の土地が遣り取りされ分割された。
四
真夏の強烈な太陽がヂリヂリと油照りに照りつけ蝉の声が暑苦しかった。志津は今日畑へ草削りに出て見て今更桑の貧弱さに喫驚した。もう幾年も肥料を入れず、それで摘む方丈は本葉も残りなく責めて了ふので、株が弱り切ってまるで火箸のやうな細い枝が申訳許りに伸びてゐる。栄養不良の葉はすっかり縮んで汚点《しみ》ができ、下枝の方の葉はもう黄色に枯れかかってさはると散りさうだった。
見渡したところ芽も大分止ってゐるやうだった。売るつもりの春蚕が桑がちっとも売れず、通し桑になったのでどうしても今度は蚕を飼はねばならなかった。それで手に余るとは思ったが枠製三枚飼ふことにして、吉本屋へ催青を頼んであった。
志津はこれで掃立が出来るだらうかと思ふと心細くて堪らなくなった。
畝間に作った馬鈴薯が情なくヒョロヒョロ伸び立ってゐる。痩せた土には禄な雑草も生えないで、意地の悪い地縛り草が万遍なくはびこって、黄色い花が日中に凋んでゐる。
鍬が古くて錆び切ってゐるので、余計削りにくかった。
先祖がこの土地の草分だったから背後に山を負った南向の丘の上でどこからでも目立つ屋敷地だから痩せた畑は一層身窄らしいものだった。大体屋敷の跡をその儘畑に直したのでザクザクとした砂地で何を作っても育ちが悪かった。ここには元の屋敷を偲ばせる何物も残ってゐなかった。只一つ今草を削ってゐる直ぐ傍らに下水溜がその儘に残ってゐた。土で大方埋まって底に用水が錆色をして溜ってゐる。周囲の木が朽ちて其処だけ莠と蓼が茂ってゐる。
志津はそのどぶ溜を見るときっと昔の事が思ひ出された。そして自分の佇んでゐる所が元の邸のどの辺に当るかといふ事を判然《はっきり》知る事が出来るのだった。そこが流し元だった。一段上ると上台所だった。東方に細いれんじ[#「れんじ」に丸傍点]窓がある丈でどこからも光線の入らぬ暗い台所だった。明るい台所は金が溜らぬと云はれてゐて隅の方は手探りにする程だった。
その囲炉裡端の上座にいつもどっしりと坐ってゐた祖母、一生を下女の様に流し元に働き通してゐた母、広い屋敷の内を綺麗に片付けて置くことに気を配ってゐた父、それぞれの顔が浮んで来るやうだった。
破風造りの大きな家の、十坪の余もある土間の隅には石臼が置いて在って何彼と云へば餅が搗かれた。「色の白いは七難隠すってねえ」さう云って祖母のお安は志津達姉妹の色白で美しいのを自慢した。
人に逢ふのが嫌ひな質で、いつも籠ってゐた。暗い中の間から奥の座敷へ通ふ廊下の長かった事も思ひ出すことが出来た。
巌めしい門の外の塀の所を物見のやうにしてゐて、祖母は始終のやうに其処迄出張って来て部落の家々を眺め渡してゐた。
朝日夕日が土蔵の白壁を眩ゆく照り返した。
池には山水が溢れ大きな緋鯉が跳ねてゐた。
何も彼も有余る豊さで、恵まれて敬はれて人形のやうに大事に育てられてゐた。――
それはもう遠い遠い昔の夢の様な記憶の断片だった。何も彼も煙のやうに消えてなくなって了って、今目の前には荒れ果てた桑の畑が在るばかりだと云ふ確な事実をどうすることも出来ないのだった。
けれども志津は今その事を考へてはゐなかった。志津には何も考へられなかった。
どうしたらこの苦しい現在をくぐり抜けて行かれるかといふこと以外には――
その思ひでいつも頭が占領されてゐた。
志津は四五日前、この冬死んだ妹の嫁ぎ先へ漸くの思ひで米を借りに行って来た時の事を思ふと思はず冷汗が流れる様な気がした。それは二里程離れた笠見部落の矢張り同族の大屋だった。
妹の姑にあたる人が、玄米を一斗袋に入れ「お貸し申すのも何んだで、今度はまあ是だけお持ちておいでて……」
さう憫《あは》れむやうな調子で云って渡して呉れたのだった。妹が生きて居たとしても行きにくい家だった。向うにも妹の子供が二人遺されてゐたので、志津の子供を皆連れて後妻に来て欲しいと云ふ話しが一度起り掛けたが、それはとても不可能な事として断わって了ひその儘になってゐたのだった。
志津は草削の手を休めて眼に沁む汗を拭いた。
三代養子が続けば長者になると云ふ諺があるが森田家では四代も養子続きだった。
祖母のお安は勝気者だったが子供が無かったので隣村の大屋から姪を連れて来た。それが志津の母親である。おたけ様と呼ばれてゐたが、「たけぢゃない、たァけだ」と蔭では云ふ者があった。血縁が絶えると云ふ訳なので、お安も目をつぶってゐた。父の紋治は岡島部落の岡島家から来た。岡島家は古い伝統を持ってゐる由緒有る大屋で、紋治は酒を飲むときっとそれが出た。
「俺の生れた家は勿体なくも御観音様が建てて下された家だぞよ」と云ふのである。
絶えず妻を罵って二言目には「おん馬鹿さん!」と怒鳴った。
「そいでもおんの字とさんの字がつくだけいい!」
蔭ではさう云って笑った。耕地の者が「お早うございます」と挨拶すると、「ウム!」と鼻の先であしらふのが紋治の癖だった。正月には耕地の者は折畳んだ一固めののし餅を持って御年始に行く習慣だった。返礼には固い串柿半重がきまりだった。
志津の処へ天龍川向うの旧家から利国が養子に来た。華かな婚礼で耕地中の者が手伝ひに動員された。お庚申峠で歓声が上がって行列が部落の中へ入って来た。勝太も宇平も荷担ぎに加はってゐた。見物人の集った所へ来ると箪笥を担ぐ者らははやし立てて、故意に重さうに「重い重い」と云って蹌踉めいて見せた。
「何んだ! 石でも入ってゐるんか!」
義一の親爺はいきなりさう悪態ついた。その癖、今日の振舞酒を誰よりも当にしてゐたのだ。
「馬鹿云ふな! まあ一杯飲め……」酒樽と盃がつき出された。女や子供は先を争って御仲人の手からお菓子をねだった。花嫁の後からデップリした花聟が通った。
「今日はお志津まの雀斑《そばかす》も見えなんだなあ!」
見物人の中から誰かがさう云って笑はせた。
翌年の春、志津は男の子を産んだ。利国によって喜八郎と云ふ名前が命名された。
金以外に幸福を感じなかった利国は、今をときめく一代の大金持大倉喜八郎の名を蔭乍ら頂戴に及んだのである。利国はその事を得意顔に人に吹聴した。何代目かで初めて男の子が生れ森田の家の繁栄に祖母のお安は満足な顔をした。
浮気っぽい利国は直きに、大人しい許りで外から帰っても嬉しいやうな顔もして見せぬ志津に厭きはじめた。役場や吉野屋で過す時が多くなって行った。隣村から時々出張して来て吉野屋で店を開く呉服屋の佐々木は折々云った。
「森田の若旦那位果報な人はめったない。女にゃ好かれるし金はいくらでも持っとるし……」
そして煽てて茶屋女の物なぞを頻りに買はせることがうまかった。続いて次の男の子が生れた。今度は善次郎と付けた。安田善次郎の善次郎である。
繭の値が十円以上もしてゐて世間が好景気の真最中だった。森田部落でも田圃が惜気もなく潰されて桑畑に代った。吉野屋には茶屋女が二人も三人もぞろりとした風をしてゐた。
善次郎は生れつきがひよわくて、一年許り育った丈で死んで了った。利国は間もなく義妹の春に手をつけて妊娠させた。
その時はさすがのお安も顛倒した。ぢきに始末をつけることはつけたが、春はいつ迄も蒼い顔をしてゐた。
「春まはどこがおわるいの?」
志津と幼友達の峰のかのゑはわざわざ探りを入れて志津の顔色を読んで見た。志津は性来の寂しい目をしてゐた。
「お志津まも黙っとる人だが馬鹿ぢゃねえぞ!」そんな風に云ふ者もあった。
利国は町の方へ行ったきり帰らぬ日が多くなって行った。森田の身上にもひびが入ったと云ふ噂が聞えるやうになった。
やがて財界の変動が、波のやうに養蚕地を襲ひはじめ、繭値は次第に下落して行った。
さうなると地道に働けぬ性分の利国は、焦って投機に手を出して大損をした。損の埋合せをするつもりで、俄にすばらしい蚕室を建て、七八人も人を入れて春蚕の種を三十枚も掃き立てた。然しそれも見事に失敗に終った。腐ったのと不景気がひどくなったので、結局秋には立てた許りの蚕室が他へ運ばれ、次手に穀倉と納屋とが崩されて運び去られた。
その冬祖母のお安がぽっくりと死んで行った。お安の影のやうに生きてゐた母のおたけがまもなく後を追って死んで行った。
志津は第三番日の男の子を産んだ。今度は久衛と付けられた。利け者だった祖父の名を取って付けたのである。望みがだんだん小さくなって来た。幾度も競売をしてガラン洞になった家の中で、父の紋治は養子を罵り乍ら呆気なく死んで了った。
倒れだしたと思ったらバタバタと一気に倒れて了った。山林も田地も疾うに他人の名儀になった。町の日歩貸の福本清作の手代が後始未に奔走した。手入した庭樹が一本づつ歯を抜くやうに抜き去られて行った。
その年第四番目の子が生れて清作と名付けた。喜八郎も善次郎も直接《じか》には響いて来ぬ名だったが清作の名には身に痛い覚えの有る者が多かった。
「清作だって?フン、福本清作ちふ偉い人があるでな! さんざ膏を絞られといてまんだ拝んどりゃ世話はねえ……」
さう云って憤慨したり笑ったりしたものだ。
遂に大きな本宅も取払はれた。二反歩近い屋敷跡には裏手の隅っこにたった一つ文庫蔵が残された。利国達はその土蔵の軒に廂をかけて起伏する事になった。土蔵は福本の所有であり、敷地は利国の生家の中村家の名儀になってゐた。
揚句の果に利国はふいと中風になって寝就いて了った。
「森田もささらほうさら[#「ささらほうさら」に丸傍点]だ!」部落の者は集るとその話になった。
何んと云っても目の前に見事に没落して行く家を見るのは痛快だった。
やがて利国も死んで行った。四十をやっと越えた年で……。みさ子が生れて半年経たぬ頃だった。志津は僅かの歳月の間に五つの葬式を見送った。周囲の事情がすっかり変化して了った。利国の葬式の時、手伝ひに来てゐた合田のおときが、
「以前で云やァ第一の子分だもの、無い者ぢゃないんだ
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