晩飯時で、家内中の者が賑やかな茶碗の音を立ててゐた。「お掛けて……」嫁のみつ代が愛想好く云った。背中のみさ子が「まんま、まんま」さう云ひ乍ら手を出した。
志津は遠慮勝に切りだした。
「あの、いつかお預けしといた蒲団をおもらひ申したいんで……喜八郎が襦袢がないちふってよこしましたが、なんにも布がないんで……あれでも倒して縫ったらとおもって……」
弁解《いひわけ》のやうにつけ加へて云った。
「さうかな! あれをお持ちるかな!」姑のおまきは立ち上って来たが、隠居の方へ廻るように云った。外へ出るとみさ子が、急に泣きだした。志津は納屋の横を通って行く時、その納屋が元の邸のどこに在ったかといふことをチラと思ひ出した。
利国が生きてゐて丈夫だった時分、窮迫してなんでも手当り次第に持ちだしては金に換へるので、志津は内密に夜具一枚と机一脚を隣家へ運んで来て、置いて貰ったのだった。
おまきは隠居所の縁から上って障子をあけた。するとその障子のすぐ際にちゃんと机が置かれてあった。七分厚みの一枚板で、四尺はたっぷりあるがっしりした机だった。両側に三つづつ抽斗のついたひどく古風なものだったが父が養子に来る時、岡島家から持って来たと聞かされてゐたものだった。
志津は机の上に雑誌だのインキ壺だの置かれて座蒲団の敷いてあるのを見て取った。
「誰か使ってゐるのだ!」瞬間にさう覚るといきなり頭の中が混乱して来て、志津は凝っと佇立した。おまきは押入から夜具を出して来た。
「ほんにこれなら丈夫だで、作場へ着れるもの……。昔は、大きいとこのお衆はみんなかういふ物を持ってお嫁入おせたんだなむ!」
おまきはひろげて見乍らさう云った。手紡ぎの糸を手織りにした頑丈な地質で、背中の処におそろしく大きな三柏の定紋が染め抜かれてゐた。
紺の匂ひがブンとした。
「今時こんな重い物を着る人はありませんなむ!」志津は持ち上げて見て云った。
「そいでもこれは綿がとても上等のやうだで倒すのは勿体ないやうだ!」おまきは云った。
志津は「机は次手に頂いて行きます」と口先迄言葉が出かかり乍ら躊躇《ためら》った。気軽く云って仕舞へば何んでもなささうに思ひ乍ら圧されるやうで云ひ出せなかった。
現に使ってゐる処を見込んで云ひ出す事が苦しかった。「机もお持ちるかな?」さう云ひ出さぬおまきの心の中のものがこちらに反射してくるのだ。
はっきりした事を云はずに預けきりにして置いたので、抵当にほしいと云はれても仕方ない事だった。志津はさう思ふと堪らなくなって、今云はねば云ふ時がないやうな気がしだした。
「みさちゃんにお駄賃がなかったなむ!」おまきはさう云って次の間から煎餅を二三枚出して来てみさ子に持たせた。みさ子は引っ奪くる様にして口へ持って行った。志津はたうとう云ひ出せずに了った。(又今度の次に!)さう心の中で思ひ返した。
「どうもお世話様で……」志津はさう挨拶して、真っ暗な道へ出た。
「何んしろわしら方でもお宅の弁金をうんと背負込んでしまって……」
さう幾度となく聞かされて来た言葉が今更重苦しく頭にこびりついてゐた。どうにも切迫詰って、おまさから内証で融通して貰った五円の金も今はとても払ふ見込はつかなかった。
志津は底もなく滅入《めい》り込んで行く心持ちを感じ乍ら、重たい夜具を抱へて歩んだ。
六
「今日はお暑かったなむ!」上の道から声を掛けられて畑にゐる志津は振り仰いだ。尾籠《びく》をつけたおときが立ってゐる。「もうどの位な?」
「やっと二眠起きたところ!」志津は答へた。
「おときさんとこは進んどるらなむ! 飼ひがおいいで……」
「昨日桑付けしたとこな。夜跨ぎになって手間が取れちまって……。なんしょ芽桑がちょっともないんで骨が折れてわしァふんと悲しくなったもの!」
おときは溜息をつくやうにして云った。
「うちのもみんなとまってしまって……」
「ほんにこちらのもとまってしまった!陽気の加減だなむ!どうしたって芽は、四方咲でも作ってうんと肥やさにゃ駄目な!」おときはさう呟くやうに云ったがふと、
「ちょっとまあ、松下の畑を見て御覧な! なんたらいい芽が揃っとるら! 綺麗で目が醒めるやうぢゃな!」
いかにも羨望に堪へぬ口調で云った。
そこらは見下す位置になってゐる隣家の畑は今丁度夕陽があたって、一斉に伸び立った桑の若芽がみづみづと黄緑色の蓆《むしろ》をのべたやうに遠く見渡された。桑畑の茂りで隣家は大方隠れてゐる。
おときは猶しばらく喋りつづけた。
「ほんに喜八郎まは如何だな! あのまんまいい向でおいでるらなむ!」
「ありがたうございます」
志津は一寸頭を下げたが、大分いい様子だと云ふ事を話した。
「その節は色々心配しておくれて……」志津はもう一度頭を下げた。
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